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Posted by おてもやん at

2011年04月21日

小池真理子と宮本輝 蛍の表現を比べてみたくなりました!

 小池真理子『水底の光』文春文庫(2009年8月10日第1刷)の「闇に瞬く」の中に、蛍のことが書いてありました。

 少し歩くと、川が近づいてきたのがわかった。やわらかなせせらぎの音が大きくなってくる。河鹿の鳴き声がそれに混じる。
 黒々と闇にのまれた木立を抜け、右に折れると、とたんに視界が開けた。「いるいる!」と泉が声を押し殺しながら言ったのと、中空を流れるように飛び交う無数の蛍の明滅を奈々子が目にしたのは、ほとんど同時だった。
 星のごとく瞬く光は優しくおぼろに淡く、それでいながら、闇に確実に照り映えて、川面を映している。月の光のようである。右に左に、上に下に、音もなく蛍は流れ、その不規則な、つかみどころのない光の群れは、幾条もの細い髪の毛ほどの筋と化して闇に消えていく。
 川幅はせいぜい六、七メートル程度で、対岸の木立の輪郭もなぞることができる。闇に目が慣れるにつれ、闇が闇ではなくなっている。濃い闇の中に、うすぼんやりと明滅する蛍がとけて、闇自体が水墨画のような淡さを伴うものになりつつある。

それで宮本輝『螢川』(昭和52年)の以下の一節を味わいたくなりました。

 千代とて、絢爛たる螢の乱舞を一度は見てみたかった。出逢うかどうか判らぬ一生に一遍の光景に、千代はこれからの行末をかけたのであった。
 また梟が鳴いた。四人が歩き出すと、虫の声がぴたっとやみ、その深い静寂の上に蒼い月が輝いた。そして再び虫たちの声が地の底からうねってきた。
 道はさらにのぼり、田に敷かれた水がはるか足下で月光を弾いている。川の音も遠くなり懐中電灯に照らされた部分と人家の灯以外、何も見えなかった。
 せせらぎの響きが左側からだんだん近づいてきて、それにそって道も左手に曲がっていた。その道を曲がりきり、月光が弾け散る川面を眼下に見た瞬間、四人は声もたてずその場に金縛りになった。まだ五百歩も歩いていなかった。何万何十万もの螢火が、川のふちで静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いていた華麗なおとぎ絵ではなかったのである。
 螢の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞いあがっていた。
 四人はただ立ちつくしていた。長い間そうしていた。
 (中略)
 その時、一陣の強風が木立を揺り動かし、川辺に沈澱していた螢たちをまきあげた。光は波しぶきのように二人に降り注いだ。
 英子が悲鳴をあげて身をくねらせた。
「竜っちゃん、見たらいややァ・・・・・・」
 半泣きになって英子はスカートの裾を両手でもちあげた。そしてぱたぱたとあおった。
「あっち向いとってェ」
 夥しい光の粒が一斉にまとわりついて、それが胸元やスカートの裾から中に押し寄せてくるのだった。白い肌が光りながらぽっと浮かびあがった。竜夫は息を詰めてそんな英子を見ていた。螢の大群はざあざあと音をたてて波打った。

  


Posted by わくわくなひと at 18:09Comments(0)

2011年04月21日

小池真理子『水底の光』~一瞬の心もようを素直に正直に表現

 小池真理子『水底の光』文春文庫(2009年8月10日第1刷)。「オール讀物」に2004年から2006年に掲載された6つの短編がおさめられています。
短編 はあまり時間がとれない時に、一服の清涼剤として読むといいですね。がちがちになった脳細胞がストレッチされるような気分になれます。小池さんの作品は男女のことが多いようですが、その中でも自然描写で「はっ」とする表現に出会えます。こんな自然の感じ方とか表現の仕方があるのか、そんな驚きに応えてくれるところがいいですね。
 あとがきに、こんなことが書いてありました。
 ・・・短編は、私の場合、「その日その時」の一瞬の自分自身の心もようが、大きく影響する。・・・その時、流れ続けている何かは、思いの外、素直に正直に、表現されてしまうらしい。
 そうなんだろうと思います。本人が思ってもみなかった素直さと正直さ。だから、覗いてみたくなります。

 後はメモっておきたい箇所です。

「パレ・ロワイヤルの灯」
「僕はりえをものすごく愛している。こんなに女の人を愛したことはないし、これからもないよ。でも悲しいね。腹立たしいね。僕はこんなに愛しているきみを幸せにすることができない」と。
・・・
 幸せにする、というのはどういうことなのだろう。あれからずっと、わたしは考えている。

「闇に瞬(またた)く」
 水音の中に、時折、河鹿が鳴く声が混じる。野鳥の囀りも遠くに聞こえる。水の匂い、湿った夏の緑の匂いが部屋の中にまで漂ってくる。
 ・・・
 雨はやまなかった。小降りになったかと思うと、再び雨足を強め、緑滴る小さな庭先の木々の葉をたたいた。開け放した窓の向こうから、水の匂い、土の匂いがしとどに部屋の中に流れこんできた。

「愛人生活」
 なだらかな丘が幾重にも連なる遙か向こうに、小さく扁平に街並みが拡がっている。夜ともなれば、街の灯はちかちかと星のように、音もなく瞬く。
 ・・・
 日の光も射していないというのに、木々や草が瑞々しく雨に濡れ、空気そのものが淡く発光しているかのように、あたりはうすぼんやりと明るかった。
 遠く近く、野鳥の囀る声が聞こえてきた。木の葉から滴り落ちる雨が草を打ち、大地を打った。音とも呼べない音が、まるで谷間に谺する水音のように響いていた。
・・・
「予定調和の中にある人生はつまらない。こうしてああして、ああやって、こんなふうに年老いて死んでいく・・・・・・それが見えてしまうのはたまらなく退屈なんだよ。そんな人生を送らなくちゃいけなくなったら、俺は迷わず自殺するね。死んだほうがましだ。ただのエゴイストだ、どうしようもない男だ、って女房にはさんざん罵倒されたけど」

「ミーシャ」
 左知子の目は、上野駅を出た新幹線の窓の外の、雑然とした都会の夜の風景を見ている。居酒屋やスナック、英会話教室、ラブホテル、サウナ、いろいろなネオンが折り重なるようにして煌めいているのが見える。なのに心の中にある目が溶け始め、裂けていき、そこから記憶という記憶がどっとあふれ出してくる。現実に目にしている街の夥しい明かりの群れに、記憶の中の映像が静かに重なっていく。
・・・
・・・その笑い声も、話し声も、左知子にとっては水の中で聞く音のように実感がない。
  


Posted by わくわくなひと at 17:27Comments(0)

2011年04月21日

【熊本市電】健軍町だけでは水前寺に行くか分からない

 旅行者向けの案内やサインは難しいですね。
 昨日のこと。通町筋から味噌天神まで熊本市電に乗りました。
 私の前に並んでいた老夫婦(60歳代くらいか)とおぼしき方たちが、健軍町行きの電車にいったん乗って、慌てて降りられました。私のすぐ前だったので、「水前寺公園には行かへん」?と聞こえました。「あ!関西方面からの方々だ」と思って、「水前寺に行きますよ」と声をかけましたが、ドアが閉まって出発進行です。何だかばつが悪かったですね。
 確か市電の行き先表示(電車の顔の上の表示)は、「健軍町」としか書いてありません。地元の人には水前寺公園前を通って健軍町に至ることは分かりますが、初めて訪れた人はそこまでの情報はありません。電車の路線図やほかの表示を見れば、当然、分かることですが、そこまで見ない人も多いようです。
 実は、昨日の件で二度目です。二三週間前には同じ通町筋の電停で、「健軍行き」の電車に乗っている時、「これ熊本駅に行くんでしょう?」と聞かれました。その時は、「熊本駅は反対方向ですよ」と伝えましたので、その方は無事「熊本駅」行きに乗られたことと思います。
 観光客など、よその人が行く場所は、サブタイトル扱いでもいいから、表示しておいた方が不安にならずにすみますけどね。
 サインや表示は、大都市になるほど工夫されているようです。東京の地下鉄に乗っても、どこの出口が目的地に一番近いかすぐ分かるような表示やサインが整っています。確か福岡市営地下鉄でも、「福岡空港行き」のほか「博多駅」を経由することが分かる表示がありますし、九州大学や福岡県庁方面に行く貝塚行きに間違って乗らないような表示や放送がくどいようにしてあると思います。
 熊本市も政令市になって大都市の仲間入りをしますので、このあたりの工夫は日々重ねていかれることと思います。九州新幹線が全通して、確かに関西弁を話される方を熊本でもよく見かけるようになってきました。
  


Posted by わくわくなひと at 13:17Comments(0)