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Posted by おてもやん at

2012年03月24日

渡辺京二『熊本県人』備忘録①

渡辺京二『熊本県人』備忘録①
 肥後人の気質は、以下の通り。
・昔の肥後人はモッコスという言葉をあまり使わなかった。つまり、モッコスは肥後人の代表的な気質ではない。
・肥後人気質は「ワマカシ」(複雑聡明、自意識鋭く批評的)
・自意識の敏感さから(大阪弁でいう)「ええ格好しい」を極端にきらう
・物質的な利害や現実的な効果と結果を基準とする思考法を嫌悪
・情熱的かつ冷笑的、開放的かつ鬱屈、観念家かつリアリストと常に二面性
・徹底した反功利主義と極端な観念主義の起源は菊池家の家風
・気質はかたくなであくどい観念性の内陸的肥後と、のどかさと明るさの海洋的肥後に

以下は備忘を目的とした書き写し。
(※■は備忘のために勝手につけた見出し。)

肥後魂の二面性

■昔の肥後人はモッコスという言葉をあまり使わなかった
12頁
 近頃では、モッコスとは抵抗精神のことで熊本の誇りだなどと、ばかなことをいう人間が熊本県人の中にさえいるが、私の考えでは、昔の肥後人はこの言葉をあまり使わなかったし、自分たちの特徴をいいあらわす言葉とはけっして考えていなかった。その証拠に、肥後狂句の研究家山口白陽氏によれば、古狂句の中にはモッコスという言葉は一例も使われていないそうである。熊本県人の特色は、「モッコス」それ自身にあるというよりも、むしろ、おなじ条件の下ではどこにでも存在する頑固な変わり者を、モッコスというユーモラスなイメージとして対象化して行く意識のありかたにある。
 肥後人は天性のユーモリストで、冗談とばか話が大好物である。そしてそのユーモアはことごとく、肥後人が意識的かつ批評的な気質の持ち主であることから生じている。・・・

■肥後人気質は「ワマカシ」(複雑聡明、自意識鋭く批評的)
13頁
 清風が指摘しているような、複雑聡明で自意識が鋭く批評的であるという肥後人気質をあらわす言葉は「ワマカシ」である。昔から肥後人を代表する言葉とされたのはこのワマカシであって、けっしてモッコスではなかった。モッコスという言葉がさかんにいわれるようになったのは戦後の流行であって、これは肥後のワマカシの悪名高いのに熊本人自身が反省して、より外づらのよいモッコスを熊本人の代表におしあげたもののように思える。

■自意識の敏感さから「ええ格好しい」を極端にきらう
14頁
・・・熊本人は大阪弁でいう「ええ格好しい」を極端にきらう。これは自意識の敏感さであって、自分がいまいい格好をしつつあるのではないかという自己批評がつねに働く。この批評意識はもちろん他にもおよぼされる。・・・同級生の会話に頻出する「ムシャツクンナ」「ウストロカ」の二語であった。

■物質的な利害や現実的な効果と結果を基準とする思考法を嫌悪
19~20頁
・・・それは利害とか出世とか社会的評価などという現実的な関心を徹底して放棄したい欲求であり、自分というものをできるかぎり無化してしまいたい情念である。
 これは、ある純粋に無償な行為に対する強いあこがれであり、その意味で強烈な反功利主義である。物質的な利害や現実的な効果と結果を基準とする思考法を、それは嫌悪する。
 このような傾向は、本質的には現実の制約をきらう主観主義であり、しかも肥後人の中途半端をいやがる極端な性質は、その主観主義をおのれをすらも無と化してしまいたいというぎりぎりのところまで押し進めずにはおかぬである。肥後人の奇言奇行というものは、およそこういうところに根をもっている。思想現象でいえば、神風連などはこのような主観主義と反功利主義の標本といってよい。

■情熱的かつ冷笑的、開放的かつ鬱屈、観念家かつリアリストと常に二面性
25頁
 こう見てくると、肥後人には、ひとつの傾向なり欲求なりを、極点まで進行させねばやまぬ性格であることがわかる。しかも、一方の極が見えている時には、同時にその反対の極が見渡せているのである。感情は熱情的でありながら冷笑的、明るく開放的でありながら重苦しく鬱屈するといったふうに、つねに二面性をおびている。熱情的にひとつの極にのめりこんでいく過激さとともに、そういう自分の情念をひややかに眺めるさめた意識がある。彼は実行においては極端な観念家でありながら、認識においては徹底したリアリストである。いわゆる肥後の党争の禍とか肥後人の分裂抗争癖なるものは、このような肥後人の魂の二面性の現われである。・・・

菊池家の家風
■徹底した反功利主義と極端な観念主義は菊池家の家風
48頁
・・・その家風とは、あらためて特徴づけてみると、利に目を奪われて背信することをきらう潔癖さ、ことの成敗にとらわれることをいやしみ、観念に殉じることを美しいとする美意識、いったんきめた方向を変更しない果敢さと頑固さ、現実の動向よりも自分の内部の確信を信ずる主観主義、というふうにまとめることができる。これを一言でいうなら徹底した反功利主義ということになろうが、このような気風がどうして当時の菊池一族のなかにつちかわれたのかといえば、それは謎というほかはない。
 しかし、ここに菊池家の家風としてあげたような特徴は、いずれも後世の肥後人にしばしば現れた精神的特質であり、それからすれば、菊池の家風は、肥後人の反功利主義的な美意識と極端にかたむきやすい観念主義の、最初の発現ということができよう。
・・・
 辺境で権力から疎外されたものは、自己救済の手段として、幻影を生み出しそれにあこがれる。そしてそのあこがれは観念的であるだけに、どれだけでも純粋化し、現実の利害を超越する。菊池氏の反功利主義の理由として、このような仮説を立ててみることは、かならずしも思いつきではあるまい。

キリシタン大名、行長
■気質はかたくなであくどい観念性の内陸的肥後と、のどかさと明るさの海洋的肥後に
71頁
・・・彼が築いた宇土城(鶴の城)をはじめ、彼の記憶をとどめる遺跡は徹底的に破壊された。そして、それはまた、肥後の歴史の主流をかたちづくった内陸的肥後による、海洋的肥後の圧服でもあった。
 ここで内陸的な肥後というのは、阿蘇・菊池・鹿本・玉名・飽託・益城(松橋・小川地域を除く)などの肥後北半分のことで、歴史的には阿蘇・菊池氏から、加藤氏に支配がひきつがれる地域である。いわゆる肥後人気質とは、正確にはこの地域のものである。これに対して、宇土から芦北にいたる不知火沿岸地帯と天草は、文化地理的にいって海洋的性格が強く、歴史的にも、名和・相良・小西といった、北半とは異なる支配の系譜が織りなされて来た。・・・
 不知火海をかかえこむ、これら県南部地域が、内陸的な北部とはちがった性格を示すのは当然であるが、この地方の住民も、ワマカシとかモッコスという言葉で特徴づけられるような、いわゆる肥後人気質とは、かなり違った意識構造をもっているようである。一言でいって、それは、北部のかたくなであくどい観念性に対し、海にかこまれた自然のなかでまどろんでいるような、のどかさと明るさを示している、といってよい。あるいはそれは、北部の士族や本百姓の私有意識の強烈さと、南部の漁民や流民の共有意識のあいまいさの対比ともいえるかもしれぬ。・・・

島原の乱
■肥後精神史での切支丹の流れ
74頁
・・・しかし、行長の統治は、歴史の上から抹殺されたかに見えながら、つねにかすかな影を肥後の精神史に投じ続けた。そのひとつが、肥後切支丹の流れである。
 そもそも、肥後にキリスト教が入ったのは、一五六六年の秋、ヤソ会士のダルメイダが、天草の志岐鎮経とその家臣たちを入信させたのが最初である。七○年には、本渡の天草氏も信者となった。当時、天草地方は切支丹大名である大友宗麟の勢力下にあり、それだけ布教も容易だった。また記録によると、それより早く、トルレス神父が六三年から翌年にかけて、高瀬町に滞在し、高瀬と川尻に布教許可の立札が立てられている。
・・・

細川氏入国
■実際の石高は七十四万石
83頁
・・・おもてむきは五十四万石だが、実際の石高は細川氏がひきついだ時点で七十四万六百四十石四斗五合であった。
・・・

宝暦の改革
105~106頁
・・・収入の増大の面では、(堀)平太左衞門は一連の経済政策を実行に移した。すなわち、宝暦六年から検地を開始し、隠し田を摘発した。検地といっても、田畑に実際に検地棹を入れれば、農民が動揺するので、一枚一枚の田畑の面積は調べず、田畑の枚数だけについて、帳簿と実際をひきあわせたのである。これを「地引合い」といい、玉名郡の庄屋田添源治郎の発案で、実行も彼が指導した。この地引合いは十三年かかり、終わったのは明和六年(一七六九)であった。

136頁
・・・細川藩はこの総庄屋層に郷士としての特権をさずけ、彼らの自尊心をくすぐりながらたくみに農民統制に役立たせた。総庄屋たちは土着的な豪農であると同時に、藩命によって各地を転任して歩く官僚でもあった。

名君をめぐる人びと
112~113頁
■世間の調子とちがうような者に大才がある。
 彼(細川重賢)の統治者としての資質は、まぎれもなく優秀であった。彼は君主の任務は人材を正しく用いることにあると考えており、しかもそのさい、けっして自分の好みを出してはならぬことを知っていた。彼は某藩の藩主の問いに「自分の好みで人材を選んではならぬ。みんながよいという人物を私心なく用いることだ」と答えており、またつねづね「こちらの寸尺をあてはめて人材を求めれば、望みにかなう者はまずいないものだ。一拍子、世間の調子とちがうような者に、かえって大才がある。大才ある人物は、ちょっと見には愚物のようであり、おかしなところが多いので、見そこなうことがある」と言っていた。すぐれた見識である。

実学党と学校党
140頁
■小楠の学問観は「学問の道は古典の字句のせんさくにあらず」
・・・小楠は・・・三十二歳にもなって兄の厄介者である。・・・この時までに、彼は、学問の道は古典の字句のせんさくにあるのではなく、それを現実の社会にほどこすことにあるという、いわゆる実学の立場にすでに達していた。また真理は先哲の書から演繹されるのではなく、現実の観察からもたらされるという方法論にも達していた。しかし、現実そのものを批判すべき思想的な立場はまだ築かれていなかった。彼にはまだ拠って立つべき理念がなかった。徹底的な古典とのとりくみが始まる。・・・

反主流派
■実学党は横井小楠、長岡監物、元田永孚ら
■長岡監物は水戸斉昭や藤田東湖らと親しい
140頁
 天保十二年(一八四一)小楠を中心に米田是容(長岡監物)、荻昌国、下津休也、元田永孚らの読書会が始まった。
142頁
 弘化四年、是容は家老職を退いた。是容は水戸藩の指導者と親しく、水戸斉昭や藤田東湖が幕府ににらまれて失脚したあおりをくったのである。小楠の藩政改革プランもまた一場の夢と化した。・・・

時習館批判
■小楠の学問観は実用主義ではなく真理を明らかにすること
144頁
 ・・・すなわち、ここでは学問が藩の必要にこたえる政治技術になってしまっている。さらに藩士たちにとっては学問をすることが立身出世の手段になる。こういう学校はないほうがましだというのが小楠の考えである。
 つまり小楠は、学問が章句の解釈にとじこもって政治と無関係になることだけを批判したのではなく、それが安易に政治の手段とされ実用化されていることをも批判したのである。実学という名にわざわいされて、小楠の学問観が実用主義的なものだったように考えるのは誤りである。彼にとって学問とは天地の間に存在するただひとつの理(真理)を明らかにするものであり、固定化した知識の体系ではなかった。・・・あらゆること、たとえば父子夫婦の人間関係から山川草木鳥獣、歴史上の事実から日用の事物にいたることがらについて、思索をこらすこと、それが学問である。朱子を学ぶというのは朱子が学んだ方法を学ぶことであり、杜甫を学ぶというのは杜甫が詩作した方法を学ぶことである。つまり彼にとって真理を明らかにする作業はどういう生活領域においても可能なのであり、政治もまたひとつの真理追究の領域にすぎないのである。学政一致はこういう考えの上に立ってはじめて可能になる。小楠の学問観は、学問を当時の政治体制から独立した、批判的理性の働きとしてとらえるものであった。・・・

政治批判
146頁
■小楠堂を支えたのは徳富、矢島、竹崎、長野などの郷士層
 小楠が家塾を開いたのは、天保十四年(一八四三)である。・・・四年後の弘化四年にはいまの熊本市下通あたりに「小楠堂」が新築された。第一の入門者は徳富一敬、ついで矢島源助であった。徳富は葦北郡佐敷郷の総庄屋の嗣子であり、蘇峰・蘆花兄弟の父である。矢島は益城郡中山郷の総庄屋の長男である。ついで玉名郡南関郷の総庄屋木下家の出身で、おなじく総庄屋格の竹崎家をついだ竹崎茶堂、鹿本郡稲田村の医師の息子で、のちに熊本県製糸業界の父となった長野濬平も門人となった。もちろん小楠に弟子入りしたのはこういう郷士層だけでなく、藩士の中にも門弟はいた。嘉悦氏房(三百石)、山田武甫(百石)、安場保和(二百石)などがその主なものである。

矢島一族
147頁
 矢島家は上益城郡津森村杉堂を本拠とする総庄屋家で、この頃の当主は忠左右衛門であった。忠左右衛門は三村和兵衛の娘つるを妻にもらった。・・・忠左右衛門は郡会所の下役から勤めはじめて、天保九年には葦北郡湯浦郷の総庄屋となった。その頃、水俣の豪家である徳富家の当主美信が湯浦の北どなりの佐敷郷の総庄屋をしており、そういう縁で矢島家と徳富家のつきあいが生まれたのである。

肥後勤王党
■小楠と並ぶ思想的巨人、林桜園
150頁
 林桜園は肥後勤王党の思想的な師であり、小楠とならぶ近世熊本の思想的巨人といってよい。・・・
 もともと肥後には高木紫溟がはじめた国学の伝統があった。紫溟は第三代時習館教授で時習館に国学科を設置しようとしたが、藩庁のいれるところとならなかった。彼は高弟の長瀬真幸を本居宣長のもとに送り、この真幸が帰国して熊本城下に塾を開き、宣長学をひろめたのである。桜園は真幸の塾に入門した。文政十年、三十歳のときに桜園はまねかれて玉名郡伊倉に移った。そして天保八年(一八三七)、四十歳になって友人たちの協力で熊本城下千葉城町に家塾原道館を開くことができた。
 宮部鼎蔵が原道館に入門したのは嘉永五年(一八五二)である。鼎蔵はもともと上益城郡七滝村の医者の息子である。祖父が富田大鳳の門に学び、彼自身は大鳳の子文山から医術を習った。しかし医者になるつもりはなく、叔父が肥後藩の山鹿流の軍学師範をしていたので、若くからそのもとで兵学をならい、叔父のあとをついで三十歳で山鹿流師範に任ぜられた。彼が政治運動に身を投じて肥後勤王党のリーダーとなるのは、大鳳ゆずりの尊皇思想のせいもあろうが、ひとつは親友吉田松陰の刺激によるものと考えられる。

153頁
 桜園は嘉永年間、すでに五十代である。宮部鼎蔵、松村大成、永鳥三平、轟武兵衛、河上彦齋、太田黒伴雄、加屋はるかた、魚住源次兵衛、山田信道などの弟子たちにとって、この師は翁という印象をあたえたにちがいない。・・・

154~155頁
 (嘉永六年、一八五三)この頃の小楠をはじめとする実学党は、桜園門下の勤王党の人びとときわめて親しい関係にあった。小楠自身、桜園の門人名簿に登録されているところからみれば、なんらかの形で彼の教えを乞うたことがあったのである。小楠はとくに宮部鼎蔵や永鳥三平と親しく、内坪井の宮部の道場にはしばしば門弟をひきいて山鹿流軍学のけいこに出かけた。・・・
・・・
 徳富蘇峰は「松陰の交遊の一半は、その同志者の一半は死にいたるまで肥後人であった」といっている。松陰が五年間に北は青森から南は九州にいたるまで全国を歩き回ったのは、閉塞した現状を打破することのできる思想的な起爆力を求めてのことであったが、その彼にもっとも深い印象をあたえた土地が水戸と熊本であったことは、当時の熊本の実学党・勤王党の水準をものがたっている。

  

Posted by わくわくなひと at 15:49Comments(0)

2012年03月11日

書籍購入による散財報告 渡辺京二『熊本県人』は最高傑作

 実は性懲りもなく3月9日(金曜日)、再び散財!苦し紛れに書き留めておく。
 この日夕刻より、いやな予感はしたが天神のジュンク堂書店とTSUTAYAで3時間ほど過ごしてしまった。足を向かわせたのは、数日前の茂木健一郎氏の講演の中で、インターネット社会やグローバル化の進展の中で東大や九大は頼るべきではなく、今や松下村塾のような心を共有するような私塾が対応可能な時代という内容が気になっていたからである。
 それは吉田松陰について一通り知りたいという欲求として顕在化し、書店を浮遊することとなった。入門編としては、まず司馬遼太郎の本だろうと思い、ジュンク堂書店の文庫本コーナーで目星をつけ、TSUTAYAに古本があれば購入すると決めていた(何と小市民的で賢い選択!)。TSUTAYAでは司馬氏の「世に棲む日日」を見つけたが、全ての巻がそろっていないので買うのはやめた。その代わり『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅』(中公文庫)が全巻並べられていることを発見。しかも、古本だから1冊350円。吉田松陰はもちろん空海、勝海舟、坂本龍馬など日本史の偉人たちに対する司馬氏の見方をすべて知ることができる。いい買い物だ!しかし、帰宅して気づいたことだが、3巻が欠けていた。
 ジュンク堂書店では司馬氏の本を探索するついでに、前から読みたいと思っていたウィンストン・チャーチル『第二次大戦回顧録 抄』(中公文庫)を偶然見つけたので即刻購入。今日、東日本大震災から1年ということで、日経新聞と西日本新聞のコラムに、米国を代表する日本近代史の研究者ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』のことが紹介されていた。ダワー氏曰く「歴史の複雑さを理解し整理する努力をあきらめてはいけない」。チャーチルの本は、まさにそんな内容だと期待する。
 「よし、どれから読もうか」期待に胸をふくらませて、ジュンク堂1階の新刊本コーナーを通り過ぎようとした時、“熊本県人”と大書された本が5冊ほど棚に置いてあるのに気づいた。「何だろう?」と思って近づくと、熊本在住の大知識人、渡辺京二氏の本だった。
 帰宅して、何から読み始めたかというと、『熊本県人』言視舎(2012年2月28日初版第1刷)。1972年新人物往来舎より刊行された『熊本県人』を再編集した内容という。熊本ゆかりの者しか通用しないと思うが、前半はニタニタして読めるし、「おい!こう書いてある。」と人に読んで伝えたいほど面白い。後半は熊本の偉人や思想史となっており、肥後人及び関係者は必読すべき内容だ。ただし、著者も断っているように熊本県人と言っても、ほとんどは旧白川県(熊本市及び県北)の人々の性格について子細に述べられている。旧八代県、人吉、天草、葦北の方々にはあてはまらない内容となっている。
 『熊本県人』は天神のジュンク堂でも、よか場所に置いてあったことから、熊本ではさらによか場所でもっと広く平積みされているに違いない。
  


Posted by わくわくなひと at 22:59Comments(0)

2012年03月08日

茂木健一郎講演会メモ(2012年3月7日、於:アクロス福岡)

(株)NCBリサーチ&コンサルティング(西日本シティ銀行グループ)主催。講師は脳科学者の茂木健一郎。講演テーマは「脳と決断力 ~不確実な時代を生き抜く術~」。
 以下は忠実な聞きおこしではなく、個人的に読みとった内容。
■ソニーの製品と東京ガラパゴス大学の入試の共通性
 ここ20年の日本経済の停滞はインターネットの普及とグローバル化の進展が大きな要因。つまり、これらの要因が進展したことから、ゲーム(経済)のルールが変わり、それ以前のルールに適合し発展してきた日本社会が対応できなくなっている。
 先日の朝日新聞の記事で東大の総長が「入試の点数が1点でも高い者を選ぶことは果たして公正か?」と本音を漏らしていた。皆さん(経営者がほとんど)の会社の入社試験では、ペーパーテストだけでなく総合的な人間力を基準にして採用の適否を決定していることと思う。実はハーバード大学も皆さんと同様であり、ペーパーテストは比較的簡単であり、卒業生による面接で合否を決定している。そもそも人が人を選ぶこと自体が公正ではないが、ハーバードでは面接をして選んだ人が責任を負うことになっている。
 私はソニーの携帯電話を持っており、実にいいものだと思うが、ネットに結びつかないと付加価値は出てこない。ipadはネットに結びついた仕組みであり、ソニーの製品はいくら優秀でもツールの一つに過ぎない。
 今のソニーの製品づくりとセンター試験で1点でも高い点数をとる優秀さには共通性があると思う。
 友人の市川海老蔵は、いろいろ問題はあるが、すごい人間だと思っている。学校の教科書を1ページも開いたことがないというが、3日間で歌舞伎のせりふを完璧に覚えてしまう能力を持っている。海老蔵は東大(東京ガラパゴス大学)には入れないが、ハーバードなら入れるかも知れない。
■これから通用するのは国、東大、九大ではなく私塾だ!
 日本人は偶有性(不確実性)を忘れてしまっている。今はネットの普及やグローバル化の進展で何が正解か分からなくなっている。正解が分からなくても何かを行うのが経営だ。Googleのユーチューブは法律的にみるとグレーゾーンだが、結果として世の中がよくなるのであればよしとする考えで行動し、世界の人々から受け入れられた。松任谷由実の卒業写真などの歌詞は彼女が経験したことを書いたのではなく、想像の産物であると、本人から聞いたことがある。「ガラス瓶の中を貨物船が通る」など、ユーミンは脳の中のさまざまことを組み合わせて想像(創造)しているのであり、世界で一人しかない能力を使っている。スティーブ・ジョブズもそうだ。
 譜面が読め絶対音感でピアノがうまく弾けるという能力は芸術大学に入るために必要だが、こういった能力のある人たちのすべてが、音楽を自分の脳の中から生み出すことはできない。
 新しいものをつくっていく能力は東大生(センター試験で1点でも高い点数をとる能力のある人たち)にはない。正解が何か分からない中で、自分の個性を生かして決断を積み重ねていくことができる人たちが、新しいものを創っているのだ。自分の体をはって決断を積み重ねていかないと、ぜったいに脳は鍛えられない。これは経営者の人たちなら、ふだん行っていることでもある。
 これからは国とか東大、九大に期待もできないし、頼ろうとしても頼れない。それに代わるものとして、吉田松陰の松下村塾のような心の共同体のような私塾が必要だ。インターネットやグローバル化の時代には私塾が最も対応できると思っている。
  


Posted by わくわくなひと at 21:02Comments(0)

2012年03月07日

茂木講演会で、商品も“渾身の作”“志”が大事と思いました

 今日は(株)NCBリサーチ&コンサルティング(西日本シティ銀行グループ)主催の2012年春季トップ・マネジメントセミナーに参加しました。
 講師はタビオ(株)の越智直様正会長と脳科学者の茂木健一郎さんでした。越智会長の生命力溢れる経営観は面白くて説得力がありました。いつか機会があれば紹介します。
 茂木さんは「脳と決断力」ついて話されました。これも、近いうちに自分なりの要約を紹介しようと思います。
 今日は、茂木さんの話でハッとしたことを書き留めておきたいと思います。
 私が茂木さんの本を最初に読んだのは、5年前くらいだと思います。新潮文庫の『脳と仮想』を一読し、けっこう感動して、それから茂木さんの本を5冊程度読みましたし、茂木さんの本によく出てくる小林秀雄の本まで読みました。悲しいかな内容はよく覚えていませんが、それだけ影響を受けたということです。
 ところが今日、茂木さんが『脳と仮想』について、「渾身の作なのに私の本の中で一番売れていない」と言われたのです。そう言われてみれば私の仕事上の恩師である梅澤伸嘉氏も、『メラキアの発想』という本は良い内容だと思うけど、自分が書いた本の中では一番売れていないと言っていたのを思い出しました。
 “売れる本”は必ずしも、凄い内容とは言えず。当たり前と言えば当たり前ですが、今日、茂木さんの話を聞いて改めて「そうだな」と思ってしまいました。
 もちろん、スティーブ・ジョブズが「宇宙に衝撃を与えるほどの製品をつくりたい」と思って、凄い商品や会社をつくってしまうというように両方備えているにこしたことはありません。しかし、本というのは“売れる”という価値だけで判断してよいものでしょうか。それよりも、“世に問う”というような志の高さも必要だと、つくづく思った次第です。そんな思いに囚われたのも、午前中、福岡の某出版社を訪ねていたことも一因になっているかも知れません。
 ふつうの商品も、売れることが第一の目標ですが、志も同じように大事だと改めて思いました。
  


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2012年03月04日

学校では教えてもらえない内容-阿部秀司『じゃ、やってみれば』

阿部秀司『じゃ、やってみれば “感動という商品”を創り続ける男の言葉36』日本実業出版社(2012年1月20日初版)。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のプロデューサーの本である。こういう映画をつくった人がどんな人か知りたくて読んでみた。
一見して、読むのにさほど時間はかからないと思ったが、思った以上に時間がかかった。広告代理店のサラリーマンが“無”から映画制作会社をつくり、次々とヒット作を生み出してきた軌跡を書き留めた内容だけに、学校では勉強できない経験しないと分からないことがたくさん書いてあった。いくつか書き留めておきたい。

①運は必然
 運とは単に何もしないところにやってくるものではなく、ふだんから問題意識を持って、強い意志とともに素早く行動した結果、チャンスという目に見えないものが、ある日突然降り注いでくる-そんな感覚を持っている。つまり、「運」とは、偶然ではなく、その人の努力の積み重ねによってもたらされる必然の産物なのだ。
※確かに人の成功話を「運」とか「偶然」とかで片付けてしまうと、何も得るところはないと思う。「運」=「必然」と認識すると、どうしてこの人はこんなことができたか?注意深く学習することができるようになる。逆に「あれは運、あれは偶然」と、人の話を評価する人は、たいした人物ではないと思ってしまう。

②マーケットがなければ自分でつくる
 新しいことを試みようとするときには正解なんてない。でもそこで一番大切になってくるのが、自分の中にだけは“正解”と言えるものを持っているということ。
 僕はふだん、ちょっとでも自信がないとからっきし弱くなる。自分の中に確信のような“魂”がないと、プレゼンや人を説得する場面でも、すぐに理論に走ってしまう。でも理論だけで何かを伝えようとすると、そういうものは、すぐぐちゃぐちゃになって、迫力がなくなるものだ。
 「・・・マーケットがないなら、そこに自分でマーケットを創ればいいじゃないか」
※ものづくりをしていると評論家のような人達から、「マーケットがあるんですか?」「ターゲットは誰ですか?」とよく聞かれる。世の中は、これまでにない商品が登場して新たなマーケットをつくったのだから、これまでにない商品にはマーケットは存在しないというのが正解だと思う。ものづくりで苦労している人は、そんな野暮な質問はしないと思う。

③「わからない」と言える自分でいたい
 ・・・いつでもどこでも、少しでもわからないことがあれば「わからない」と言える自分でいたいし、どんな立場でもなんでも素直に人に聞いて指示を仰げるオープンな気持ちでありたい。・・・
 僕は「いつも新しいものを作る」という気持ちで映画を作っているが、新しいものというのは、視点を変え、考え方を変え、そのドキドキ感と新鮮さから生まれるものだ。
※確かに「わからない」という問いが、自分達があきらめていること、難しいと思っていることが解決してしまう突破口になることがある。

④判断を正しいものにしていく力が重要
 ・・・「判断」というのは表か裏かという結果にすぎないこと。でも、それだけで人生が変わるということ。
 そして、何よりも大切なのは、・・・判断の正しさ以上に、その判断を正しいものにしていく力のほうが重要なのだと思う。
※正しい判断とは何かと考えるよりも、こう突き進むと決めたら、その決断が後から考えてよかったと言えるまで努力しないといけない。評論している暇はない。それが実戦だと思う。

⑤結果がすべて
 ・・・人間なんて結果でしか判断してもらえない。結果がすべて。結果がよければ、そこに至るまでのプロセスについては、後からどうとでも言える。・・・成功したら褒められ、失敗すれば怒られる-単純な話だ。
 だから、「勝てば官軍」。何でもやるからには成功しなければいけないと僕は思っている。僕が好きな話で、石田三成が関ヶ原で戦う前に、「正義は必ず勝つのです」と言ったら、上杉景勝が「いや、勝ち負けが正義を決めるんですよ」と。「そうだよなあ。勝ったから、正義になるんだよなあ」と至極納得した。
※人の評価とは、そんなものだと思う。オセロゲームのように、最後が勝ちであれば、間の黒の駒がすべて白にひっくり返ってしまう。勝ちにもっていくための努力が何よりも大切だ。
  


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