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Posted by おてもやん at

2012年02月28日

ハリケーン襲来後の驚くべきニューオリンズの変身

 27日付けの日本経済新1面コラム「春秋」に、ニューオリンズ市の話が書いてあった。7年前、ハリケーン襲来で土地の8割が水没した都市であり、このことは憶えている。
 「衰退の町から起業の町へ。」で始まるコラムでは、2つの日本では信じられないような取り組みが書いてあり、驚いた。
 変身の原動力は2つあると書いてあり、忘れたくないのでメモすることにした。
①市長や議会がシンクタンクやコンサルタントと机上で描いた再開発案を捨て、民主導で小さな地区ごとに集会を開催。避難した人とはネット中継で結び投票を実施、復旧ではなく変身を目指す未来図を練り上げたという。
 
②2500を超す起業家に地元財団が出資し、優秀な学生や中堅のビジネスマンをどんどん町に呼んだという。それも出資は寄付で集めた資金を小規模事業に投資したと書いてあった。

 復旧とか再開発という言葉ではなく“変身”という発想にただならぬものを感じた。詳しくは分からないが、今後、ニューオリンズの情報があれば必ず目を通すことになりそうだ。
  


Posted by わくわくなひと at 20:45Comments(0)

2012年02月26日

複雑系脳トレ文学 芥川賞・円城塔「道化師の蝶」の影響力?

 よく分からなかった小説、円城塔「道化師の蝶」。しかし、読み終えて、今さらながら、思考回路が影響を受け、いつの間にか、興味や関心の指向が変化したことに気づいてしまった。というよりも、数ヶ月前の思考回路に戻ってしまったというのが正確かも知れない。
 昨日は、久々に「スウェーデン式 アイデア・ブック」をピラピラとめくった。その中の「創造性の4B 頭が冴える場所」、バー(Bars)、バスルーム(Bathrooms)、バス(Busses)、ベッド(Beds)に目が止まった。自分の場合もそうだし、バスや電車で移動する時の方が名案や妙案がたくさん生まれてくる。それで、ベッドで読みかけ中の青木保『作家は移動する』(文学を徹底して「移動」の観点から読み解く画期的試み。前文化庁長官の文化人類学者、初の本格的文芸評論)を手にとって、残り100頁ほどの文章を読み始めた。
 その理由は、たぶん、「道化師の蝶」に出てくる内容が気にかかったからだと思う。小説の中に世界各地を飛行機で飛び回り、ほとんど地上に降りることなしに生活しながら、まるで珍しい蝶を網で捕るように「着想を捕まえる」ことで、巨万の富を築いたA・A・エイブラムスという人が出てくるからだ。
 そして、また「スウェーデン式 アイデア・ブック」をピラピラとめくった。すると次は「ギルフォードが空軍用に考案した最初の創造性テスト」が目に止まり、「確かギルフォード派の研究は下火では?」と思った。それで、またまた読みかけの創造性に関する心理学、脳科学、哲学などの学説史を手に取ることにした。
 お酒も飲んでいたので、それで意識がなくなり、今日となった。
 今日、日曜日の新聞は読書関係の記事が多い。日経新聞に「道化師の蝶」が紹介されていた。「複雑系脳トレ文学」と書いてあり、なるほどと思った。見出しは「答えのない問いが生むスリル」。さすが批評家の佐々木敦さんは表現がうまい。
(批評から一部抜粋)
・・・物語を追おうと思ってはいけない。一行一行、そこに書かれているあることから拡散していく思弁を自分なりに咀嚼しながら、いうなれば小説という形を取った、すこぶるユニークな脳トレに挑むようなつもりで読んでみる必要がある。もちろん、正解があるとは限らない。文学とは答えを提示するものではないからだ。だが、これだけは言える。本作を読み終えた時、あなたは過去に感じたことのない、心地良い疲労を感じているだろう。言葉とは、言語とは、思考とは、一体何なのか。答えのない問いだけがもたらすスリルが、円城小説には横溢している。
 今日26日付けの熊本日日新聞にも、円城小説を思わせる、森博嗣作、佐久間真人画「失われた猫」が紹介されていた。著者は元名古屋大学工学部助教授で工学博士と書いてある。ちなみに円城さんは東京大学で博士号をとった複雑系の研究者である。
 「失われた猫」の書評の以下の部分は記録しておきたい。
 簡潔な文章、それに正確に対応した英訳文。劇的な展開があるわけではない。物語なのか、詩なのかも判然としない。
 にもかかわらず、この言葉の連なりの背後には整然とした論理が存在しているに違いない、そう思わせる雰囲気がある。痕跡もある。
 たとえば、作中繰り返される「自然」という言葉。しかし、そこに添えられている絵は、いつも人工的な街の景観。
 そう、猫にとって、みずから変えることのできない「街」は、人間にとっての「自然」と同義なのだ。
 固定観念や誤った常識にノーを突きつけてくるのは著者のスタイル。あるいは、ノーを突きつけるために物語がある?
  


Posted by わくわくなひと at 16:45Comments(0)

2012年02月24日

芥川賞は単行本より「文藝春秋」が三度楽しめる!

 23年度下半期の芥川賞の発表があって、「文芸春秋」の発売を心待ちにしていました。この雑誌の発売前から、単行本の広告が新聞等で散見されましたが、じっと我慢していました。なぜかというと、「文藝春秋」には、作品だけでなく作家大御所たちの選評も掲載されていますし、受賞者へのインタビューもいっしょに掲載されているからです。作品だけでなく大御所たちの感想や思いも読めるし、インタビューからは本人たちがどんな軌跡をたどってきたのかがうかがい知れるからです。二度か三度、いろんな角度から受賞作を楽しめるわけです。
 「共喰い」の田中慎弥さんはインタビュー等で話題を呼びました。作品も、いろんな意味で刺激的だし文章もきれいな感じがして、他の作品も娯楽として読んでみたくなりました。何となく昭和の情景、それも昭和40年代初期くらいのイメージを感じましたが、こんな若い人がよく描けるものだと思いました。
円城塔さんの「道化師の蝶」は、ストーリーが頭の中でかき乱され、正直、何を伝えないのか分からないというよりも、円城さんはこんなことを伝えたいのではないか?という解説は自分のアタマでは無理ですね。しかし、ビジネス書のように、これはメモしておきたいと線をたくさん引いてしまいました。この作品には「新しい小説」、「新しい時代」、「新しい発想や着想」など、たぶん今までの権威や仕組みの中で成功してきた人々の多くは理解できないのではないか?という別の価値を感じてしまいました。自分ももちろん分かりませんが、読んで10日くらい経った今頃になって、「これはメモしておこう」と思うようになりました。何かを感じます。
 あとは個人的趣味という意味でのメモです。

■「道化師の蝶」(「文藝春秋」平成24年3月特別号)より
「わたしの仕事というのはですな、こうして着想を捕まえて歩くことなのです。色んな場所で試してみたが、結局、大型旅客機の飛行中が一番良いということがわかりましてね。旅の間というものは様々な着想が浮かび続けて体を離れ、そこいらじゅうに浮遊していく。使いようもないガラクタが多いのですが、それでも会議室に雁首揃えて、元からありもしない知恵を絞るよりよっぽど宜しい。物事を支えているのは常に着想を注ぎ込まねば維持のできない生き物でしてな。こうして餌を捕まえて歩くわけです」

「旅行中に読める本とは、どうして書くことができますか」
 脇腹をこちらに押しつけ身を乗り出してくるエイブラムス氏の素朴な問いに、さて、とわたしは首を傾げる。そんなものが実際につくれるならば、とうの昔にできているような気もするのだけれど、見逃されてきただけとも思える。何々用の本というのは、読書家には嫌われるものだろうから。贈答用の本、友人の見舞いに持っていく本、逆立ちする間に読む本、移動中に読むための本、実業家のための本。何かの用に供するために書かれた本とは、どこか興醒めの気配が漂う。思いつきを口にしておく。

 初期の大ヒット作、『飛行機の中で読むに限る』は、豪華客船で旅する富裕層の間に口コミで広がり話題となった。空港での販売実績はぱっとしないものだったが、一人の書評家が鞄の中に入れっぱなしになっていたその本を船旅の間に見出し、爆発的に回し読まれたのだという。それほどの反響を呼ぶならばと一般の書店で売り出しに出、豪華客船御用達のキャッチのもと、飛ぶように売れた。

 知幸知幸がある種の異能者であることは間違いがない。
 話言葉ならばともかく、書き言葉をそこまで自由にできるものなのか。一般に文字を書くのは特殊技能だ。誰もが何かの手段でもって当座の意を通じるまではしてみても、それを固めて並べていくにはまた別種の技能が必要となる。これはどうやら生存に必須の技ではないらしく、ヒト科の標準的な装備からは外されている。

 広告や告知文、当時の流行歌などが文書には多く含まれている。全てを引き写すということはなく、その瞬間に目につき、耳に飛び込んだ部分部分を継ぎ接ぎしてはただひたすらに書いていくのが、知幸知幸の言語学習法だったようだ。

 言葉の綴りを習うより編目の結び方を習う方が簡単だ。
 実際にそこにあるものだから。
 わたしは、はじまりの言葉も知らずにこの地へ至った。

 どちらかと言えば旅は嫌いで、住むのならば構わない。移動が嫌いなわけではなく、通し過ぎてしまうのを苦手としている。観光地に興味はなくて、その周囲に住む人々を眺めているのは面白い。曜日や時間帯による人の流れの変化を覚えていくのが楽しく、ある瞬間だけから流れは見えない。空いた時間は街歩きをして過ごす。書店の棚を覚えるように、街の配置を体の中に取り込んでいく。

 思いつきとかいうものを片っ端から捕まえる網を、君がどこかで編み上げてしまったことが、そもそものはじまりの、途中のどこかの終わりのはじまりの横の角を曲がったところを最初に戻って少しずれた出来事だったのだから」

■平成23年度下半期芥川賞選評(「文藝春秋」平成24年3月特別号)より
▼川上弘美
「世界にはどうやら、日常の言葉ではとうてい説明しきれない現象が存在する。・・・」
▼島田雅彦
『道化師の蝶』はそれ自体が言語論でありフィクション論であり、発想というアクションそのものをテーマにした小説だ。自然界に存在しないものを生み出す言語は、生存には役立たないもの、用途不明のもの、しかし、魅力的なものを無数に生み出すユニットであるが、小説という人工物もその最たるものである。日々、妄想にかまけ、あるいは夢を見て、無数の着想を得ながら、それらを廃棄し、忘却する日々を送る私たちの営みは、まさにこの小説に描かれている性懲りもないものである。この作品は夢で得たヒントのようにはかなく忘れられていく無数の発想へのレクエイムといってもいい。
▼宮本輝
川上委員の・・・人間が作った言語というものも、使い方や受け取り方がいかようにも変化し、多様化、あるいは無意味化していくことを小説として表現しようとしたのだ、という意見が私にはとてもおもしろかった。
 だとすれば、円城さんの「道化師の蝶」は、作者の「眼は高い」が「手は低すぎる」ということになる。
 だが、最近の若い作家の眼の低さを思えば、たとえ手は低くても、その冒険や試みは買わなければならないと思う、私は受賞に賛成する側に廻った。・・・

■円城塔・受賞者インタビュー(「文藝春秋」平成24年3月特別号)より

・・・森鴎外は、大学生の頃に好きで割と読みました。内容というより、漢語調の文体・リズム、漢字の使い方といった部分がとても好きだったんです。

・・・僕自身は、さまざまな言語に共通する「絶対言語」みたいな構造があるんじゃないか、という研究をしていました。物理学でも物質より理論に興味があったように、どうも仕組み、構造の方に魅力を感じる質のようです。

 大学時代に、構造主義のテキスト論に触れた衝撃は今でも残っています。文章は文法をはじめとした外部の環境に左右されるものであり、作者の意図を裏切るものである、という考え方です。・・・

・・・僕だけでなく、エンジニアをしているような人間が今の日本のメインストリームの小説を読んで楽しいかというと、たぶん楽しくないんですよ。・・・もっと構造や部品そのものを面白がってもらう小説もあり方もあるんじゃないか、と思うんです。感動を与えるばかりが小説の役割ではなくて、普段の生活では考えてもみないことが考えられるようになる、というのも小説の力だと思います。・・・

 家でじっとしている時はダメで、移動中とか、ふとした時に思いつくことが多いですね。すぐに忘れてしまうので、その場でメモするようにしています。
(スマートフォンを開き、「体としての蟻」と書かれたメモを見せる)

 ・・・ヘンテコなものが好きなんですよ。・・・
  


Posted by わくわくなひと at 20:19Comments(0)

2012年02月04日

『秘密』小池真理子対談集

 1年半くらい前に引き続き、小池真理子ブームが再来した。世の中のブームは知らないが、個人的なブームの再来だ。
 文庫本の短編集を2冊読み、今度は『秘密 小池真理子対談集』講談社文庫(2009年12月15日第1刷)を読んだ。短編は短い時間、ちょっと空いた時間や寝る前、移動中などに読めるのがいい。この人の小説は、瞬間で文章の世界に入っていける。そして、ふと思った。「この人はどんな人なんだろう?」。
 『秘密』の「はじめに」に、こんなことが書いてある。
 「男と女の出会い同様、対談においても出会いの不思議がある、と私は思っている。
 使う言葉、心の襞、見つめているもの、通りすぎてきたもの・・・そうしたものが、初対面で、ろくに相手のことなど知らずにきたにもかかわらず、不思議とぴたりと一致する。話しが尽きなくなる。・・・」
 「そうした対談を経験できた時の至福は、たとえようもない。・・・」
 そう。たとえようもない至福に違いない。

 対談の中で忘れたくないところを、記録しておきます。
■アニー・エルノー×小池真理子
・人間心理をひたすら哲学してみせる。
・『シンプルな情熱』ハヤカワ文庫(2004年)
・三島由紀夫『春の雪』
■伊集院静×小池真理子
・小池真理子『一角獣』角川書店(2003年)
・(伊集院)永井龍男の『冬の日』だったと思いますが・・・、主人公の女の人が台所で何か仕事をしていてね。数日来の雨で、突然、何年も前に死んだ子どもの花模様のゴム毬が縁の下からスーッと流れ出てくるんだよ。いやあーっ、残酷だね。
・伊集院静『乳房』講談社文庫(1993年)
・小池真理子「春爛漫」 ・・・あるとき、何年か前にまいた節分の豆が自宅の家具と家具のすきまから、コロッと出てきた。そういうときの気分って、いわく言い難いじゃないですか。ああ、あの豆まきをしたころの自分は・・・って。
・・・・何か小さなもので、ハッとすることってありますよね。
・小池真理子『夏の吐息』(「春爛漫」「秘めごと」等収録)講談社(2005年)
・田辺聖子『愛の幻滅』、『九時まで待って』
・向田邦子「かわうそ」 最初の一行と最後の一行がビシッと決まっているんですよ。「日々先から煙草が落ちたのは、月曜の夕方だった」と始まるのかな。脳卒中になった男の人が主人公の話ですね。最後に「写真機のシャッターがおりるように、庭が急に闇になった」と終わってて、・・・
■篠田節子×小池真理子
・篠田節子『インコは戻ってきたか』集英社文庫(2004年)
・小池真理子『天の刻』「襞のまどろみ」文春文庫(2004年)
・(篠田)私自身もそうでしたが、女性の十代から二十代前半までって潔癖で、傲慢ですよね。世間は若さだけでチヤホヤしてくれるし、その傲慢さゆえの潔癖さがあって。些細なことで相手の人格を丸ごと否定したり、否定の言葉も「気持ちわるい」という整理感覚で全部すませてしまう。・・・
■髙樹のぶ子×小池真理子
・(髙樹)男って、嫌になるくらい社会的な生き物ですよね。いつも自分の置かれている立場とか場所とかを考えて、相手との距離を測って行動するでしょう。・・・
・(小池)・・・制度にとらわれていると、それが男の表情や言葉の端々にも出てくるから、男の色気が希薄になってくる。・・・
・(髙樹)せっかく小説を読んでも、男の人は自分の人生のたしにしよう。参考にしようとするでしょう。「徳川家康」を読んでビジネスの教訓を得る。みみっちいですよ。
・(髙樹)女の人が百人いたら百通りの人生があるけれども、男の人が百人いてもせいぜい五通りぐらいの人生しかないんです。本当に人生のバリエーションが少ないと思う。
・(小池)その点、社会の枠から外れた不良の男は想像力がありますよね。ある程度、女にも共感してくれる。
・(髙樹)それは絶対あると思う。不良は、人間はこうあるべきだというふうに、世の中を単純化して考えないからね。
・理屈がすべてがならず、かといって情熱や感性だけに寄りかかることもない。・・・髙樹さんの時間の刻み方は、奇跡を起こさせる者にしかできない刻み方なのだ。・・・
■吉田修一×小池真理子
・(小池)・・・小説家というのは当然いろんな想像力を駆使するんだけれども、想像力以前に、実際に見聞きしたことから何か感性を閃かせていくための観察眼も必要で。・・・
■渡辺淳一×小池真理子
・渡辺淳一『シャトウ リュージュ』文春文庫(2004年)
・小池真理子『虹の彼方』毎日新聞社(2006年)
  


Posted by わくわくなひと at 14:00Comments(0)