2012年02月24日

芥川賞は単行本より「文藝春秋」が三度楽しめる!

 23年度下半期の芥川賞の発表があって、「文芸春秋」の発売を心待ちにしていました。この雑誌の発売前から、単行本の広告が新聞等で散見されましたが、じっと我慢していました。なぜかというと、「文藝春秋」には、作品だけでなく作家大御所たちの選評も掲載されていますし、受賞者へのインタビューもいっしょに掲載されているからです。作品だけでなく大御所たちの感想や思いも読めるし、インタビューからは本人たちがどんな軌跡をたどってきたのかがうかがい知れるからです。二度か三度、いろんな角度から受賞作を楽しめるわけです。
 「共喰い」の田中慎弥さんはインタビュー等で話題を呼びました。作品も、いろんな意味で刺激的だし文章もきれいな感じがして、他の作品も娯楽として読んでみたくなりました。何となく昭和の情景、それも昭和40年代初期くらいのイメージを感じましたが、こんな若い人がよく描けるものだと思いました。
円城塔さんの「道化師の蝶」は、ストーリーが頭の中でかき乱され、正直、何を伝えないのか分からないというよりも、円城さんはこんなことを伝えたいのではないか?という解説は自分のアタマでは無理ですね。しかし、ビジネス書のように、これはメモしておきたいと線をたくさん引いてしまいました。この作品には「新しい小説」、「新しい時代」、「新しい発想や着想」など、たぶん今までの権威や仕組みの中で成功してきた人々の多くは理解できないのではないか?という別の価値を感じてしまいました。自分ももちろん分かりませんが、読んで10日くらい経った今頃になって、「これはメモしておこう」と思うようになりました。何かを感じます。
 あとは個人的趣味という意味でのメモです。

■「道化師の蝶」(「文藝春秋」平成24年3月特別号)より
「わたしの仕事というのはですな、こうして着想を捕まえて歩くことなのです。色んな場所で試してみたが、結局、大型旅客機の飛行中が一番良いということがわかりましてね。旅の間というものは様々な着想が浮かび続けて体を離れ、そこいらじゅうに浮遊していく。使いようもないガラクタが多いのですが、それでも会議室に雁首揃えて、元からありもしない知恵を絞るよりよっぽど宜しい。物事を支えているのは常に着想を注ぎ込まねば維持のできない生き物でしてな。こうして餌を捕まえて歩くわけです」

「旅行中に読める本とは、どうして書くことができますか」
 脇腹をこちらに押しつけ身を乗り出してくるエイブラムス氏の素朴な問いに、さて、とわたしは首を傾げる。そんなものが実際につくれるならば、とうの昔にできているような気もするのだけれど、見逃されてきただけとも思える。何々用の本というのは、読書家には嫌われるものだろうから。贈答用の本、友人の見舞いに持っていく本、逆立ちする間に読む本、移動中に読むための本、実業家のための本。何かの用に供するために書かれた本とは、どこか興醒めの気配が漂う。思いつきを口にしておく。

 初期の大ヒット作、『飛行機の中で読むに限る』は、豪華客船で旅する富裕層の間に口コミで広がり話題となった。空港での販売実績はぱっとしないものだったが、一人の書評家が鞄の中に入れっぱなしになっていたその本を船旅の間に見出し、爆発的に回し読まれたのだという。それほどの反響を呼ぶならばと一般の書店で売り出しに出、豪華客船御用達のキャッチのもと、飛ぶように売れた。

 知幸知幸がある種の異能者であることは間違いがない。
 話言葉ならばともかく、書き言葉をそこまで自由にできるものなのか。一般に文字を書くのは特殊技能だ。誰もが何かの手段でもって当座の意を通じるまではしてみても、それを固めて並べていくにはまた別種の技能が必要となる。これはどうやら生存に必須の技ではないらしく、ヒト科の標準的な装備からは外されている。

 広告や告知文、当時の流行歌などが文書には多く含まれている。全てを引き写すということはなく、その瞬間に目につき、耳に飛び込んだ部分部分を継ぎ接ぎしてはただひたすらに書いていくのが、知幸知幸の言語学習法だったようだ。

 言葉の綴りを習うより編目の結び方を習う方が簡単だ。
 実際にそこにあるものだから。
 わたしは、はじまりの言葉も知らずにこの地へ至った。

 どちらかと言えば旅は嫌いで、住むのならば構わない。移動が嫌いなわけではなく、通し過ぎてしまうのを苦手としている。観光地に興味はなくて、その周囲に住む人々を眺めているのは面白い。曜日や時間帯による人の流れの変化を覚えていくのが楽しく、ある瞬間だけから流れは見えない。空いた時間は街歩きをして過ごす。書店の棚を覚えるように、街の配置を体の中に取り込んでいく。

 思いつきとかいうものを片っ端から捕まえる網を、君がどこかで編み上げてしまったことが、そもそものはじまりの、途中のどこかの終わりのはじまりの横の角を曲がったところを最初に戻って少しずれた出来事だったのだから」

■平成23年度下半期芥川賞選評(「文藝春秋」平成24年3月特別号)より
▼川上弘美
「世界にはどうやら、日常の言葉ではとうてい説明しきれない現象が存在する。・・・」
▼島田雅彦
『道化師の蝶』はそれ自体が言語論でありフィクション論であり、発想というアクションそのものをテーマにした小説だ。自然界に存在しないものを生み出す言語は、生存には役立たないもの、用途不明のもの、しかし、魅力的なものを無数に生み出すユニットであるが、小説という人工物もその最たるものである。日々、妄想にかまけ、あるいは夢を見て、無数の着想を得ながら、それらを廃棄し、忘却する日々を送る私たちの営みは、まさにこの小説に描かれている性懲りもないものである。この作品は夢で得たヒントのようにはかなく忘れられていく無数の発想へのレクエイムといってもいい。
▼宮本輝
川上委員の・・・人間が作った言語というものも、使い方や受け取り方がいかようにも変化し、多様化、あるいは無意味化していくことを小説として表現しようとしたのだ、という意見が私にはとてもおもしろかった。
 だとすれば、円城さんの「道化師の蝶」は、作者の「眼は高い」が「手は低すぎる」ということになる。
 だが、最近の若い作家の眼の低さを思えば、たとえ手は低くても、その冒険や試みは買わなければならないと思う、私は受賞に賛成する側に廻った。・・・

■円城塔・受賞者インタビュー(「文藝春秋」平成24年3月特別号)より

・・・森鴎外は、大学生の頃に好きで割と読みました。内容というより、漢語調の文体・リズム、漢字の使い方といった部分がとても好きだったんです。

・・・僕自身は、さまざまな言語に共通する「絶対言語」みたいな構造があるんじゃないか、という研究をしていました。物理学でも物質より理論に興味があったように、どうも仕組み、構造の方に魅力を感じる質のようです。

 大学時代に、構造主義のテキスト論に触れた衝撃は今でも残っています。文章は文法をはじめとした外部の環境に左右されるものであり、作者の意図を裏切るものである、という考え方です。・・・

・・・僕だけでなく、エンジニアをしているような人間が今の日本のメインストリームの小説を読んで楽しいかというと、たぶん楽しくないんですよ。・・・もっと構造や部品そのものを面白がってもらう小説もあり方もあるんじゃないか、と思うんです。感動を与えるばかりが小説の役割ではなくて、普段の生活では考えてもみないことが考えられるようになる、というのも小説の力だと思います。・・・

 家でじっとしている時はダメで、移動中とか、ふとした時に思いつくことが多いですね。すぐに忘れてしまうので、その場でメモするようにしています。
(スマートフォンを開き、「体としての蟻」と書かれたメモを見せる)

 ・・・ヘンテコなものが好きなんですよ。・・・




Posted by わくわくなひと at 20:19│Comments(0)
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