2012年04月07日

渡辺京二『新風連とその時代』

渡辺京二『渡辺京二傑作選2 新風連とその時代』洋泉社(2011年7月21日初版)。1977年に葦書房から刊行された内容を底本として新たに新書版化された本です。
渡辺さんが『逝きし世の面影』で和辻哲郎文化賞を受賞された後、この『新風連とその時代』はよく書店で見かけていました。以前から読みたいと思っていましたが、なかなか買うまでには至りませんでした。しかし、渡辺京二マイブームが再来したことによって、ついに読了してしまいました。
「新風連」と言えば、高校日本史の教科書(山川出版)に、こんな一文が書かれていたことを思い出します(正確ではありませんが・・・)。
廃刀令に激高した熊本の士族が明治政府に対して反乱を起こした・・・
佐賀の乱や秋月の乱など西南の役前の旧士族の動向として、それも時代遅れの暴挙としてのニュアンスで書いてあったことを憶えています。旧士族育ちであり明治生まれの祖母の新風連に対する態度が、宮部鼎蔵など幕末の志士に対する態度とは少し違っていたことを子どもながら感じていたことも思い出しました。それは天皇に対する考え方が明治の主流とは相当違っていたこととも関係があるかも知れません。
一読して渡辺さんの思想史的洞察の凄さに恐れ入りました。新風連の師とも言うべき林櫻園の思想史的再評価、二・二六事件との関連など、思想史や世界文学の知識の深さがなければ、とうていこのような視点で描くことができない内容だと思いました。単に変わった人たちが引き起こした事件ではなく、それが世界史や日本近代史の普遍的な脈略の中に逆説としてつながっていくことが何となく分かった瞬間がありました。それは、ある意味感動的でした。熊本ゆかりの者として、後世に伝えていく使命さえあるかも知れません。
当面の優先事項ではありませんが、昨日、ジュンク堂書店とTSUTAYAで、またまた本を買い込んでしまいました。それはさておき優先事項は「ゲーミフィケーション」関連の本を読むことです。
■渡辺京二『渡辺京二コレクション[2]民衆論 民衆という幻像』ちくま学芸文庫
■渡辺京二『私の世界文学案内 物語の隠れた小径へ』ちくま学芸文庫
■渡辺京二『北一輝』ちくま学芸文庫
■大澤真幸『近代日本思想の肖像』講談社学術文庫
■鶴見俊輔ほか編『驚くこころ 』ちくま哲学の森6


以下はメモしておきたい驚くべき内容。

■林櫻園の言として記録(150頁)
「今日攘夷を実行せんと欲せば、各国中の一国に就いて、間隙を生じた時、彼が恐嚇するに恐れず、直立直行して、遂に戦端を開くに至るべし、兵は怒なり、如此は全国民の怒■にして、以て一戦するに堪へん、我国昇平久しく、軍備廃頽し、且軍器の利鈍、彼我等比に非ず、戦はば敗を取るは必せり、然れども上下心力を一にして、百敗挫けず、防御の術を尽さば、国を挙て彼に取らるるが如きは、決して無之の事なり、彼皆海路遼遠、地理に熟せざるの客兵なり、且何を以て巨大の軍費を支へん、遠からずして、彼より和を講ずるは、明々白々の勢なり、幸にして、一度彼が兵鋒を挫頓するを得ば、我が国威は、雷■の如く欧州に奮うべし、果して然らば、国を開くも鎖すも、我望む儘なるべし」。
※司馬遼太郎が「世に棲む日日」で描いた高杉晋作の考えに似ていると思った。また、渡辺氏は「これは思想的に見ても軍事的に見ても、幕末にのべられた攘夷論中、第一等のものである。・・・開国か鎖国かなどという問題の立てかたは彼には存在しない。何が問題なのか。日本人が独立自尊の民族たりうるかどうかだけが、彼にとっての問題なのである。」と評価している。

■櫻園の焼土戦争論について(158頁)
 櫻園の焼土戦争論を、戦火に焼かれる民衆の運命を度外視しているなどと批判するのは、どうしようもないことである。後から来るものにとってそういう批判は常に容易であるし、そういう容易な「批判」は知的怠惰と同義であるからだ。そういうことよりも私には、このような櫻園の思考がほとんど即座に、次のようなドストエフスキイの言葉を連想させることのほうが、ずっと大切に思える。「国民精神の根本的道徳的な宝は少なくとも、その基礎的な本質において経済力などには依存しない。・・・・・・われわれは愛と結合の精神力を内蔵し保持することは、現在のわれわれの貧しい経済力でもできる、いな、もっとひどい赤貧状態でもできると断言する」。「不正や皮剥ぎ(トルコ兵のブルガリア人虐殺をさす)の値によって獲得された幸福などが何であろう。それはもちろん、一時的に敗北して、しばらくの間貧困化し、市場を失い、生産を減少し、物価高騰を招くこともあろう。しかし、そのかわり国民の機構は精神的に健全でなければならぬ」。

■二・二六事件との関連(265頁)
 新風連と昭和十一年二月の反乱者とのあいだに存在する本質的関連は、両者がともにこの国に導入された西欧的市民社会に対する鋭い異和の表現だということである。西欧型市民社会は、専制権力と地域的小共同体との結合によってなりたつアジア的共同体とは、まったくタイプの異なる文明である。アジア型社会は、そのような市民社会文明を自主的に生み出すことはできなかった。市民社会的諸体系を受けいれるさい、わが国の近代がそれを独自に修正せずにおかなかったにもかかわらず、わが国の基層社会の住民たちは、その諸体系に接して驚愕と惑乱を免れなかった。彼らは、彼らの眼からすれば異様な論理によって組織されているその諸体系に、けなげに適応しようとつとめるいっぽう、逃避と心情的反乱の誘惑にしばしばたえかねたのである。その場合彼らに救済者として幻覚されたのは、かならず天皇であった。なぜなら天皇制国家は現実には市民社会的諸体系の建設者であるにもかかわらず、市民社会に統合されようとしない基底社会の住民たちに対して、アジア的下部共同体の守護神たる幻想をたえず供給せねばならなかったからである。二・二六反乱は、このような下部共同体の守護神としての天皇が、現実の市民社会の建設者としての天皇に反乱した現象にほかならなかった。
 新風連の反乱はこのようにして、二・二六反乱に代表される昭和前期の諸暴動の論理をさきどりしたものとなった。むろん彼らが反乱した時代にあっては、この国の市民社会はまだ萌芽の状態にしかなかったが、彼らは西欧市民社会の文明を異神としてとらえ、信仰の次元でそれに対する異和をさきどりしてみせたのである。また彼らは、社会的存在としては村落に閉鎖された基層民ではなく、その上に立つ支配層の最下辺部分であった。だが彼らの信仰が村落民の氏神信仰と同質の民族固有神への信仰である点で、彼らの異神への異和はこの国の基層社会の構造と心情に、たしかに根をのばすものであった。だからこそ新風連の反乱はあの二・二六反乱の逆説、天皇を根拠として反乱しながら天皇の権力によって圧殺されという逆説を、四十年をへだてて予兆するものとなったのである。



Posted by わくわくなひと at 22:23│Comments(0)
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