2011年12月18日
創造力は訓練可能か?茂木健一郎とガードナーの考え
ハワード・ガードナー『知的な未来をつくる「五つの心」』ランダムハウス講談社(2008年4月23日第1刷)の中の「第4章 創造する心」を読んだ。
この本には、茂木健一郎『ひらめきの導火線 トヨタとノーベル賞』PHP新書(2008年9月2日第1版第1刷)に書いてあった以下の内容と異なると思われる見解が書いてあった。
「創造性を高めたければ、意欲と経験を結ぶ回路をうまくつなげるようにすればいい。回路は日々使えば使うほど太くなり、創造性は増強されていく。反対に、ごくたまにしか使わないと回路は細ってしまう。習慣化によって、だれもがひらめきの力を高めることができる。」
考察は別にして、「第4章 創造する心」の以下の内容は書き写して保存しておくことにした。pp108-111
かつて創造性といえば、「神や時の運によってもたらされるもの」といわれることが多かった。創造の理論を編む人々は好んで、「創造をもたらすのは、神秘的なインスピレーションを得た特別な人間に限られる」という考え方をした。だがやがて、その偶像を破壊しようとする人々も現れ始め(エドガー・アラン・ポーのように)、人間による創造は、解明できる、厳密な論理的過程に沿って進められていると主張した。それからさらに半世紀が過ぎると、心理学分野で、知性という観点から創造性をとらえる動きが始まる。
が、心理学者たちもつい最近まで、創造性はやはり限られた人々の特性で、しかも筆記試験で測れるものだと(どの分野であれ「創造的」といわれる人であれば、それを試験結果に表すはずだと)考えていた。創造性をテストする問題の原型を並べてみよう。「クリップの使い道を思いつくかぎり挙げよ」「この落書きのタイトルを想像してつけよ」「次の二つの言葉と結びつく言葉を選べ(「ねずみ」と「農家」を「チーズ」に結び付ける、など)・・・。どの知識分野であるかを問わず、こうした試験の最終結果で潜在的な創造力を測ろうとしたのだ。
この考え方はビジネスの世界にも応用された。立役者はおそらく、博識家のエドワード・デボノだろう。彼が強調したのは「水平思考」-思考の枠組みを入れ替えて「違う色の帽子(違う発想方法)」をかぶること-だ。それにより、日ごろから抱え込んでいるジレンマにも、数多くの独創的な解決策が出せるようになる(1)・・・。デボノは、思考について思考すること(「メタ思考」と呼んでもよいが)の重要性を説き、実に多くの興味深い問題とユニークな解決策を示している。その点では評価できる。だが、創造性は法則化できる能力で、すぐにでも引き上げられるものだとする見方には明らかに限界がある。
そのことを示すように、多くの社会学者が近年、デボノと意見を異にするようになった。彼らは次のような事柄を前提にする。
まず、各種の創造的な取り組みのあいだには、あまり強い関連性がないこと。一口に創造的な行為といっても、種類はさまざまだ。難しいとされてきた問題を解明すること(「DNAの構造」についてなど)、新しい謎や理論をしかけること(物理学の「ひも理論」など)、仕事の新しいジャンルを生み出すこと、オンラインで現実的または擬似的な戦いをくり広げること(値動きの激しい株の売買の決定など)・・・。つまり、「問題を解決すること」のために使われる創造性など、数ある創造性のなかの一種類にすぎないのだ(数学者としては創造的でも、討論者として創造的であるとはかぎらない。)。
次に、創造的な成果にも、小品(「生け花の新しいデザイン」)から大作(「関連性についての理論」)まで、さまざまな規模があること。
さらに、ここがとくに重要だが、分野が違えば、創造的な人間どうしであっても仕事を交換することはできないということ。モーツァルトやヴァージニア・ウルフに、ベラスケスやキュリー夫人の代わりはできない。
これらの前提は、標準的な心理学によって掲げられ、デボノによって広められた「万能サイズ」の創造性-とは対立することになる。
心理学者のミハイ・チクセントミハイの重要な考察によると、創造性とは一個人、あるいは一つの小さな集団によって形成されるものではない。そうではなく、次の三つの自立した要素が交わることで、ときとして姿を見せるものだ。
①個人:学問か熟練技能を駆使して、その分野に着実に変化を与えることのできる人(たとえば歴史学者、作曲家、ソフトウェア・エンジニアを指す)。
②文化圏:規範や規定が確立されている文化的領域(たとえば学術論文、楽譜、HTMLのプログラムそのものを指す)。
③社会領域:教育や実践の機会を得るところ。それぞれの領域を代表する人々(競技の審判、特許庁の事務員、本の出版を取り決める編集者や出版社など)が、個人の業績や創造物について最終的な判断を下す。「商業」という社会領域で最終的な判断を下すのは、もちろん「消費者」だ。(2)
チクセントミハイによると、創造性が実現したといえるのは次の場合だけだ。まず、ある「文化圏」から生まれたものが、「社会領域」のなかで画期的だと認められる。そしてその文化圏で行われる仕事に、遅かれ早かれ、目に見える形で影響が表れる・・・。
この見方は、分野や規模に関係なく、あらゆる創造物(「小品」から「大作」まで)にあてはめることができる。
1900年当時の世界では、数多くの卓越した物理学者や数学者が、光、重力、時間、空間の性質について未解明の問題に取り組んでいた。それぞれの学問の大家が、理論の構築や経験に基づく推測を進めていた。そして少し離れた場所では、特許局の無名の事務員であるアルベルト・アインシュタインが、画期的な論文の数々を書いていた。だが本当に優れた論文なのか、たんに奇をてらったものにすぎないのか、博学な編集者らがその価値を見出すまでだれにもわからなかった。その段階ではまだ、創造性が実現したとはいえないことになる。ジェームズ・ジョイスの作品も、ピカソの絵も、アルフレッド・P・スローン、マイケル・ポーター、ピーター・ドラッカーの経営理論も、ワーグナー、デューク・エリントン、ジョン・レノンの音楽作品も、ケインズとミルトン・フリードマンの経済理論も、同じような経過をたどってきたのだ。
創造性を確実に測るには、実はこの質問をするだけでよい。「その文化圏には、あなたの業績による影響がはっきりと表れていますか?」。
喜ぶべきことが一つある-法律で定められた判断基準があるわけではないのだから、自分自身が創造的でなかったという保証はどこにもないということだ。
この本には、茂木健一郎『ひらめきの導火線 トヨタとノーベル賞』PHP新書(2008年9月2日第1版第1刷)に書いてあった以下の内容と異なると思われる見解が書いてあった。
「創造性を高めたければ、意欲と経験を結ぶ回路をうまくつなげるようにすればいい。回路は日々使えば使うほど太くなり、創造性は増強されていく。反対に、ごくたまにしか使わないと回路は細ってしまう。習慣化によって、だれもがひらめきの力を高めることができる。」
考察は別にして、「第4章 創造する心」の以下の内容は書き写して保存しておくことにした。pp108-111
かつて創造性といえば、「神や時の運によってもたらされるもの」といわれることが多かった。創造の理論を編む人々は好んで、「創造をもたらすのは、神秘的なインスピレーションを得た特別な人間に限られる」という考え方をした。だがやがて、その偶像を破壊しようとする人々も現れ始め(エドガー・アラン・ポーのように)、人間による創造は、解明できる、厳密な論理的過程に沿って進められていると主張した。それからさらに半世紀が過ぎると、心理学分野で、知性という観点から創造性をとらえる動きが始まる。
が、心理学者たちもつい最近まで、創造性はやはり限られた人々の特性で、しかも筆記試験で測れるものだと(どの分野であれ「創造的」といわれる人であれば、それを試験結果に表すはずだと)考えていた。創造性をテストする問題の原型を並べてみよう。「クリップの使い道を思いつくかぎり挙げよ」「この落書きのタイトルを想像してつけよ」「次の二つの言葉と結びつく言葉を選べ(「ねずみ」と「農家」を「チーズ」に結び付ける、など)・・・。どの知識分野であるかを問わず、こうした試験の最終結果で潜在的な創造力を測ろうとしたのだ。
この考え方はビジネスの世界にも応用された。立役者はおそらく、博識家のエドワード・デボノだろう。彼が強調したのは「水平思考」-思考の枠組みを入れ替えて「違う色の帽子(違う発想方法)」をかぶること-だ。それにより、日ごろから抱え込んでいるジレンマにも、数多くの独創的な解決策が出せるようになる(1)・・・。デボノは、思考について思考すること(「メタ思考」と呼んでもよいが)の重要性を説き、実に多くの興味深い問題とユニークな解決策を示している。その点では評価できる。だが、創造性は法則化できる能力で、すぐにでも引き上げられるものだとする見方には明らかに限界がある。
そのことを示すように、多くの社会学者が近年、デボノと意見を異にするようになった。彼らは次のような事柄を前提にする。
まず、各種の創造的な取り組みのあいだには、あまり強い関連性がないこと。一口に創造的な行為といっても、種類はさまざまだ。難しいとされてきた問題を解明すること(「DNAの構造」についてなど)、新しい謎や理論をしかけること(物理学の「ひも理論」など)、仕事の新しいジャンルを生み出すこと、オンラインで現実的または擬似的な戦いをくり広げること(値動きの激しい株の売買の決定など)・・・。つまり、「問題を解決すること」のために使われる創造性など、数ある創造性のなかの一種類にすぎないのだ(数学者としては創造的でも、討論者として創造的であるとはかぎらない。)。
次に、創造的な成果にも、小品(「生け花の新しいデザイン」)から大作(「関連性についての理論」)まで、さまざまな規模があること。
さらに、ここがとくに重要だが、分野が違えば、創造的な人間どうしであっても仕事を交換することはできないということ。モーツァルトやヴァージニア・ウルフに、ベラスケスやキュリー夫人の代わりはできない。
これらの前提は、標準的な心理学によって掲げられ、デボノによって広められた「万能サイズ」の創造性-とは対立することになる。
心理学者のミハイ・チクセントミハイの重要な考察によると、創造性とは一個人、あるいは一つの小さな集団によって形成されるものではない。そうではなく、次の三つの自立した要素が交わることで、ときとして姿を見せるものだ。
①個人:学問か熟練技能を駆使して、その分野に着実に変化を与えることのできる人(たとえば歴史学者、作曲家、ソフトウェア・エンジニアを指す)。
②文化圏:規範や規定が確立されている文化的領域(たとえば学術論文、楽譜、HTMLのプログラムそのものを指す)。
③社会領域:教育や実践の機会を得るところ。それぞれの領域を代表する人々(競技の審判、特許庁の事務員、本の出版を取り決める編集者や出版社など)が、個人の業績や創造物について最終的な判断を下す。「商業」という社会領域で最終的な判断を下すのは、もちろん「消費者」だ。(2)
チクセントミハイによると、創造性が実現したといえるのは次の場合だけだ。まず、ある「文化圏」から生まれたものが、「社会領域」のなかで画期的だと認められる。そしてその文化圏で行われる仕事に、遅かれ早かれ、目に見える形で影響が表れる・・・。
この見方は、分野や規模に関係なく、あらゆる創造物(「小品」から「大作」まで)にあてはめることができる。
1900年当時の世界では、数多くの卓越した物理学者や数学者が、光、重力、時間、空間の性質について未解明の問題に取り組んでいた。それぞれの学問の大家が、理論の構築や経験に基づく推測を進めていた。そして少し離れた場所では、特許局の無名の事務員であるアルベルト・アインシュタインが、画期的な論文の数々を書いていた。だが本当に優れた論文なのか、たんに奇をてらったものにすぎないのか、博学な編集者らがその価値を見出すまでだれにもわからなかった。その段階ではまだ、創造性が実現したとはいえないことになる。ジェームズ・ジョイスの作品も、ピカソの絵も、アルフレッド・P・スローン、マイケル・ポーター、ピーター・ドラッカーの経営理論も、ワーグナー、デューク・エリントン、ジョン・レノンの音楽作品も、ケインズとミルトン・フリードマンの経済理論も、同じような経過をたどってきたのだ。
創造性を確実に測るには、実はこの質問をするだけでよい。「その文化圏には、あなたの業績による影響がはっきりと表れていますか?」。
喜ぶべきことが一つある-法律で定められた判断基準があるわけではないのだから、自分自身が創造的でなかったという保証はどこにもないということだ。
Posted by わくわくなひと at 14:25│Comments(0)