2011年08月17日

月のポケットに入れられる自分 主体性とはつまらないものである

月のポケットに入れられる自分 主体性とはつまらないものである 松岡正剛『知の編集工学 情報は、ひとりでいられない』朝日文庫(2005年12月20日第2刷、2001年3月1日第1刷)の282ページ。こんなことが書いてありました。

 私はかつて、「お月さまは自分をポケットに入れて歩いていた」という稲垣足穂の『一千一秒物語』からとった一文を、誰かれなく自慢げに御披露していたことがある。この一文はたいへん香ばしい自己言及をしているからだ。
むろん、こんなお月さまは、ありえない。ありえないにもかかわらず、この一文は、そんなお月さんがありそうな雰囲気を、つまりは編集的な現実感をもっている。私たちが、その「不飽和」なところをメタレベルで補っているからだ。そして、そこが<エディトリアリティ>を感じるところなのである。
私たちは、このお月さまの一文が醸し出してみせたような香ばしいメタゲームを、ときにはたのしむ必要がある。思考は、メタゲームに戻るべきどきがある。それは思考が香ばしい矛盾に浸るときである。それは、なんであれ、<エディトリアリティ>を私たちがほしくなるときなのだ。


 それにしても主体性とはずいぶんつまらないものである。
 いたずらに肩肘が張っているし、相手には優位に立たなくてはならず、もっと厄介なのは主語的な首尾一貫性にいつもびくびくしていなくてはならない。こんなことは子供の頃や初恋の頃からこっぴどく懲りているはずのことである。それなのに、ついつい整合的な自分づくりをさせられてきた。
私たちは葛藤や矛盾に満ちたものであり、自分の中に「あてどもないもの」や「まぎらわしいもの」をいっぱい抱えている存在である。しかしそれだけでは仕方がないために、いささか非論理的な「見当」と「適当」をうけいれてきたわけだ。
 このことは、“対外的な私”という点から見ると、いかにも自己分裂的に見えてしまうことになりかねない。そこで、たいては慌てることになる。たいていは首尾一貫性をとりもどす方向に調整をする。社会や会社は、すぐにそのことを要求してくる。しかしそうではなく、もっと葛藤と矛盾と不飽和に満ちた「奥」の方へ進んでみたらどうなのか。メタゲームとは、その「奥」の領域で待っている「私自身のためのエディトリアル・ゲーム」のことなのである。


 何かわかったようで分からない難しい文章ですが、何か感覚に訴えてきます。特に「いたずらに肩肘が張っているし、相手には優位に立たなくてはならず、もっと厄介なのは主語的な首尾一貫性にいつもびくびくしていなくてはならない。」。こんなオヤジはけっこう見かけますし、いつも格好ばかり気にして可愛そうとも思うことがあります。
 これからはビジネスも論理的だけでは通用しないという予感がしています。非論理的な驚くべきアイデアが突然降りてくる!それが世の中をリードしていくような感じがしています。




Posted by わくわくなひと at 13:39│Comments(0)
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