2011年08月07日
つながろうとする言葉 奇妙な「力」 情報連鎖の感覚
Facebookの凄さに驚いています。今までは仕事つながりの会話がほとんどでした。ところが、facebookに登録してみたら、昔、夜を徹して話していた友達とつながったり、コンピューターが未だ太刀打ちできないリサーチ分野の話しで盛り上がったり、知り合うことやつながることはまずなかったろうと思われる人たち、それも夕立の範囲くらい狭いけれど同じ空の下で暮らしている人たちと話す機会ができたり・・・。環境やネットワークが激変しそうです(仕事が疎かにならない程度に)。と言いながらも、今、facebookでつながっている人たちは、氷山の一角くらいでしょうか。氷の海から浮かんできた人たちだけが盛んにやりとりしている。そんな印象を持っています。ネットにつながって情報発信していない人は数十倍くらいいるかと思います。恐らく今、表に出てきている人は私のような中小零細企業の経営者や自営業など自由というか自己責任で情報発信ができる人に限られている。それか組織の掟などは関係ない実力のあるスーパー勤め人たちがほとんどだと思います。
つい最近までコンピューターやITと言えば、機器などのハードの世界でした(もの自体のオタク的な世界は嫌いじゃありません)。もともとそれはおかしいと思っていました。今はまさに一人ひとりが持つ情報のやりとりやコミュニケーションが主役になってきたと実感しつつあります。機器やシステムなどのハード先行の一輪車走行だった情報社会が、これまでの歴史が示すように人同士の交流という車輪が加わり、いわゆる文化を形成できる二輪車走行になってきたような感じです。
そんな中で、松岡正剛『知の編集工学 情報は、ひとりでいられない』朝日文庫(2005年12月20日第2刷、2001年3月1日第1刷)の三分の二を読みました。2001年に書かれた文章ですが、情報というものについて考え抜いた内容であり、やっと時代が松岡正剛に追いついてきたという感じがしました。セイゴーさんは、こう言ってます。
「私は、明日の日本には、これまでの真似事とはまったく別のパラダイムを導入するしかないとおもっている。そのパラダイムは、まず<情報化>と<編集化>を切り離さないこと、すなわちハードとソフトを切り離さないこと、ついでは経済と文化を切り離さないこと決めてかかることである。
経済と文化が歩みより、そこに<情報文化技術>という新しい展望が萌芽するときに、そしてそれが漂流しはじめるときに、初めてIT社会の「華」と「悪」が同時に姿をあらわすのではないかと考えたい。」
それと、以下の文章は驚くべき視点だと思いました。セイゴーさんの意図とは違うかも知れませんが、事業計画や人生設計と言えば「あなたの強みを生かせ」と言われ続けてきました。しかし、こんな処し方もありそうだし何か豊かさを感じてしまいます。
弱さを起点に考えてみたい
たんに弱者に気配りしようというものではない。それもあるけれど、むしろ自分の強さのレベルで相手に向かうのではなく、自分の弱さのレベルで対象と柔らかく接することが、かえって情報交換をなめらかにするということなのである。やたらに強がっているだけでは本当の情報はやってこない。「強がり」はたんに情報システムを強靱な“物理”にするだけである。
・・・
私たちの脳や精神(心)はもともとノンリニアである。どこにも立派な「論理」など宿ってはいやしない。論理は外にかっこよく取り出して見せるときの好都合な言説上の武装というものだから、論理はリニアを好んできた。
けれども、そうやって取り出した論理が、仮にもほんとうに論理だというのなら、それはそれでまた、もはや編集不可能なものなのだ。つまり、それはそこで一巻の終わりになってしまっているものだ。私は、そのような剛直な論理をいまさらソフトウェアにつかおうとはおもわない。コミュニケーションにつかう気もおこらない。
→鎧を捨てて自分の弱さのレベルで対象と柔らかく接する、コミュニケーションするという解釈でよろしいか?
・・・
編集は勝利や結果や無矛盾を求めない。編集は葛藤や弱点や矛盾を新たな展望に変換するためのものである。なぜ、そんなふうに言えるのか。編集は「弱さ」を起点に逆上するものであるからであり、しかも、「弱さ」は「強さ」の欠如ではないからだ。
これは来るべき<自発性の社会>ともいうべきものが、ひょっとして私たちの身近にまで到来していることを告げているのかもしれない。ただ、方法がまだ見つかっていないだけなのである。
それとこれにも驚きました。今、自分がときどきやっているエクササイズと同じことをセイゴーさんが2001年ごろやっていたのです。
いままさに自分のアタマの中で動いている編集プロセスをリアルタイムで観察しようというエクササイズである。すなわち、自分のおもいが流れているままに、そのプロセスを同時に観察するということだ。次々に進む「注意」の移ろいを観察しようというのである。
・・・
大事なことは自分自身をそうとうにゆるませるということ、フラジャイルな自由編集状態にしていくということである。ともかく思考したりしていては、もう遅い。発想をしても遅れてしまう。ただ五感を開くしかない。けれども、ボーッとしていてもダメだし、メディテーションに入ってしまうようではダメなのだ。
もう一つ。これはセイゴーさんの試みより早い1980年代からグループ(ダイナミック)インタビューの要約筆記で使われている方法です。
五、六人でミーティングをしているときがいいだろう。
各自の発言から喚起されたモノやコトを連続的にトレースしつづけるというエクササイズだから、ノートやノートパソコンには絶対に頼らないようにする。ノートやキーボードではとうていまにあわない。
ただし、やみくもに臨んでも見当がつきにくいから、いったんミーティングのビデオを撮って、それを眺めながら各自の発言をトレースしつつ、アタマに浮かぶことを同時に加えていくとよい。こうすると、どこで何が加わりどこで何が編集されていくか、だいたい見当がつく。
後は備忘録です。ここ4、5年くらい脳科学の本で書かれていることを2001年の段階でセイゴーさんは書いていたんですね。
ひとつの言葉は別の何かの言葉につながろうとしている
『ひとつの言葉はつねに別の何かの言葉とつながろうとしている。「きっと」という言葉はいつまでも「きっと」だけでいられることは少なく、ついつい「きっと会おうね」とか「きっと晴れだよね」というふうに結びつく。・・・』
何かハッとする文章です。「言葉というもの、けっこうぐらぐらとしていて、単独でいることはできないのである。不安定なのだ。何かと化合したがっているようなのだ。だから連想ゲームが成立しうるのだ。」。
自分のアタマの中と相手の言葉とのアクロバティックな連携 奇妙な「力」 情報連鎖の感覚
『ともかく私たちは、そのような情報連鎖の感覚をつかって、自分のアタマの中と相手の言葉とのアクロバティックな連携をなんとなく編集しながら、「リンゴ」がいつしか「桃太郎」になるというこの顛末を、連想ゲームとしてたのしんでいる。私が注目したいのは、その奇妙な「力」である。そして、この情報連鎖の感覚をいささか自覚的に再活用することが、これから少しずつ説明する<編集技術>というものになっていく。』
・・・このことは一部の企業ですが、商品コンセプトを開発しているプロセスで情報連鎖の感覚(AHA感覚)をいささか自覚的に再活用するようになってきています。そして、一部の企業が再活用している場面では、「アマタの中の情報回路そのものを加速するパイディア※1とルドゥス※2・・」を体感しながら仕事が続けられています。
※1)即興的興奮
※2) 無償の困難に向かっていきたいという態度
口をとじる山口百恵 歯をむく松田聖子・・・情報は行先をもっている
『さらにはゲーム(連想ゲーム)を観察してみると、ひとつの言葉がもうひとつの言葉を相手にして「一対の関係」に入るということに、言葉というものの本来の動向が見えてくる。たとえば「口をとじる山口百恵」という言葉が浮かべば、ふと「歯をむく松田聖子」という言葉もくっついてくる。すなわち、Aの情報はもうひとつ別の片割れのBの情報を求めて、その方向に向かって遊びたがっているように見えるのである。
情報が情報を呼ぶ。
情報は情報を誘導する。
このことは本書がたいそう重視していることだ。「情報は孤立していない」、あるいは「情報はひとりでいられない」ともいえるだろう。また、「情報は行先をもっている」というように考えてもよいかもしれない。
情報が情報を誘導するということは、その誘導にはおそらく柔らかい道筋のようなものがあるかもしれないということである。また情報に行先があるのなら、その行先をうまく予測しさえすれば、あらかじめ単語や概念のネットワークをつくっておくこともできるということだ。』
・・・「情報は行先をもっている」。凄い仮説です。将来のデータベース構築の基本原理みたいな話しですね。しかし、人間の頭は「0」か「1」だけではなく思考は直線的に進まない。非線形のアルゴリズム?というのでしょうか。それが奇妙な「力」、情報連鎖の感覚というのでしょうか。
考えるということの正体
『脳の中は、知識やイメージを無数の「図」のリンクを張りめぐらしているハイパーリンクなのである。これを<意味単位のネットワーク>とよぶことにする。コップはひとつの意味単位であり、ガラス製品もひとつの意味単位である。それが次々につながり、ネットワークをつくっている。けれども、そのネットワークは一層的ではない。多層的(マルチレイヤー的)で、立体的である。・・・
このような<意味単位のネットワーク>を進むことを、私たちはごく一般的に「考える」と言っている。「考える」とは、ひとまずネットワークの中の「図」のリンクをたどってみるということなのだ。ただし、ここでひとつ重大な問題が出てくる。それは、ネットワークを進むにしても、どの道筋を進むかということである。つまりどこで分岐するかということだ。それによって千差万別の考え方になってしまう。そこで、ある道筋を進んだとして、そこで「あっ、これはちがうぞ」とおもって、ひとつ手前の分岐点に引き返すということがおこることになる。もっと以前の分岐点にまで戻ることもある。何度も引き返しはおこることだろう。
このジグザグした進行が、「考える」ということの正体なのだ。それが<ハイパーリンク状態>である。思想とは、畢竟、そのジグザグした進行の航跡のことにほかならない。』
つい最近までコンピューターやITと言えば、機器などのハードの世界でした(もの自体のオタク的な世界は嫌いじゃありません)。もともとそれはおかしいと思っていました。今はまさに一人ひとりが持つ情報のやりとりやコミュニケーションが主役になってきたと実感しつつあります。機器やシステムなどのハード先行の一輪車走行だった情報社会が、これまでの歴史が示すように人同士の交流という車輪が加わり、いわゆる文化を形成できる二輪車走行になってきたような感じです。
そんな中で、松岡正剛『知の編集工学 情報は、ひとりでいられない』朝日文庫(2005年12月20日第2刷、2001年3月1日第1刷)の三分の二を読みました。2001年に書かれた文章ですが、情報というものについて考え抜いた内容であり、やっと時代が松岡正剛に追いついてきたという感じがしました。セイゴーさんは、こう言ってます。
「私は、明日の日本には、これまでの真似事とはまったく別のパラダイムを導入するしかないとおもっている。そのパラダイムは、まず<情報化>と<編集化>を切り離さないこと、すなわちハードとソフトを切り離さないこと、ついでは経済と文化を切り離さないこと決めてかかることである。
経済と文化が歩みより、そこに<情報文化技術>という新しい展望が萌芽するときに、そしてそれが漂流しはじめるときに、初めてIT社会の「華」と「悪」が同時に姿をあらわすのではないかと考えたい。」
それと、以下の文章は驚くべき視点だと思いました。セイゴーさんの意図とは違うかも知れませんが、事業計画や人生設計と言えば「あなたの強みを生かせ」と言われ続けてきました。しかし、こんな処し方もありそうだし何か豊かさを感じてしまいます。
弱さを起点に考えてみたい
たんに弱者に気配りしようというものではない。それもあるけれど、むしろ自分の強さのレベルで相手に向かうのではなく、自分の弱さのレベルで対象と柔らかく接することが、かえって情報交換をなめらかにするということなのである。やたらに強がっているだけでは本当の情報はやってこない。「強がり」はたんに情報システムを強靱な“物理”にするだけである。
・・・
私たちの脳や精神(心)はもともとノンリニアである。どこにも立派な「論理」など宿ってはいやしない。論理は外にかっこよく取り出して見せるときの好都合な言説上の武装というものだから、論理はリニアを好んできた。
けれども、そうやって取り出した論理が、仮にもほんとうに論理だというのなら、それはそれでまた、もはや編集不可能なものなのだ。つまり、それはそこで一巻の終わりになってしまっているものだ。私は、そのような剛直な論理をいまさらソフトウェアにつかおうとはおもわない。コミュニケーションにつかう気もおこらない。
→鎧を捨てて自分の弱さのレベルで対象と柔らかく接する、コミュニケーションするという解釈でよろしいか?
・・・
編集は勝利や結果や無矛盾を求めない。編集は葛藤や弱点や矛盾を新たな展望に変換するためのものである。なぜ、そんなふうに言えるのか。編集は「弱さ」を起点に逆上するものであるからであり、しかも、「弱さ」は「強さ」の欠如ではないからだ。
これは来るべき<自発性の社会>ともいうべきものが、ひょっとして私たちの身近にまで到来していることを告げているのかもしれない。ただ、方法がまだ見つかっていないだけなのである。
それとこれにも驚きました。今、自分がときどきやっているエクササイズと同じことをセイゴーさんが2001年ごろやっていたのです。
いままさに自分のアタマの中で動いている編集プロセスをリアルタイムで観察しようというエクササイズである。すなわち、自分のおもいが流れているままに、そのプロセスを同時に観察するということだ。次々に進む「注意」の移ろいを観察しようというのである。
・・・
大事なことは自分自身をそうとうにゆるませるということ、フラジャイルな自由編集状態にしていくということである。ともかく思考したりしていては、もう遅い。発想をしても遅れてしまう。ただ五感を開くしかない。けれども、ボーッとしていてもダメだし、メディテーションに入ってしまうようではダメなのだ。
もう一つ。これはセイゴーさんの試みより早い1980年代からグループ(ダイナミック)インタビューの要約筆記で使われている方法です。
五、六人でミーティングをしているときがいいだろう。
各自の発言から喚起されたモノやコトを連続的にトレースしつづけるというエクササイズだから、ノートやノートパソコンには絶対に頼らないようにする。ノートやキーボードではとうていまにあわない。
ただし、やみくもに臨んでも見当がつきにくいから、いったんミーティングのビデオを撮って、それを眺めながら各自の発言をトレースしつつ、アタマに浮かぶことを同時に加えていくとよい。こうすると、どこで何が加わりどこで何が編集されていくか、だいたい見当がつく。
後は備忘録です。ここ4、5年くらい脳科学の本で書かれていることを2001年の段階でセイゴーさんは書いていたんですね。
ひとつの言葉は別の何かの言葉につながろうとしている
『ひとつの言葉はつねに別の何かの言葉とつながろうとしている。「きっと」という言葉はいつまでも「きっと」だけでいられることは少なく、ついつい「きっと会おうね」とか「きっと晴れだよね」というふうに結びつく。・・・』
何かハッとする文章です。「言葉というもの、けっこうぐらぐらとしていて、単独でいることはできないのである。不安定なのだ。何かと化合したがっているようなのだ。だから連想ゲームが成立しうるのだ。」。
自分のアタマの中と相手の言葉とのアクロバティックな連携 奇妙な「力」 情報連鎖の感覚
『ともかく私たちは、そのような情報連鎖の感覚をつかって、自分のアタマの中と相手の言葉とのアクロバティックな連携をなんとなく編集しながら、「リンゴ」がいつしか「桃太郎」になるというこの顛末を、連想ゲームとしてたのしんでいる。私が注目したいのは、その奇妙な「力」である。そして、この情報連鎖の感覚をいささか自覚的に再活用することが、これから少しずつ説明する<編集技術>というものになっていく。』
・・・このことは一部の企業ですが、商品コンセプトを開発しているプロセスで情報連鎖の感覚(AHA感覚)をいささか自覚的に再活用するようになってきています。そして、一部の企業が再活用している場面では、「アマタの中の情報回路そのものを加速するパイディア※1とルドゥス※2・・」を体感しながら仕事が続けられています。
※1)即興的興奮
※2) 無償の困難に向かっていきたいという態度
口をとじる山口百恵 歯をむく松田聖子・・・情報は行先をもっている
『さらにはゲーム(連想ゲーム)を観察してみると、ひとつの言葉がもうひとつの言葉を相手にして「一対の関係」に入るということに、言葉というものの本来の動向が見えてくる。たとえば「口をとじる山口百恵」という言葉が浮かべば、ふと「歯をむく松田聖子」という言葉もくっついてくる。すなわち、Aの情報はもうひとつ別の片割れのBの情報を求めて、その方向に向かって遊びたがっているように見えるのである。
情報が情報を呼ぶ。
情報は情報を誘導する。
このことは本書がたいそう重視していることだ。「情報は孤立していない」、あるいは「情報はひとりでいられない」ともいえるだろう。また、「情報は行先をもっている」というように考えてもよいかもしれない。
情報が情報を誘導するということは、その誘導にはおそらく柔らかい道筋のようなものがあるかもしれないということである。また情報に行先があるのなら、その行先をうまく予測しさえすれば、あらかじめ単語や概念のネットワークをつくっておくこともできるということだ。』
・・・「情報は行先をもっている」。凄い仮説です。将来のデータベース構築の基本原理みたいな話しですね。しかし、人間の頭は「0」か「1」だけではなく思考は直線的に進まない。非線形のアルゴリズム?というのでしょうか。それが奇妙な「力」、情報連鎖の感覚というのでしょうか。
考えるということの正体
『脳の中は、知識やイメージを無数の「図」のリンクを張りめぐらしているハイパーリンクなのである。これを<意味単位のネットワーク>とよぶことにする。コップはひとつの意味単位であり、ガラス製品もひとつの意味単位である。それが次々につながり、ネットワークをつくっている。けれども、そのネットワークは一層的ではない。多層的(マルチレイヤー的)で、立体的である。・・・
このような<意味単位のネットワーク>を進むことを、私たちはごく一般的に「考える」と言っている。「考える」とは、ひとまずネットワークの中の「図」のリンクをたどってみるということなのだ。ただし、ここでひとつ重大な問題が出てくる。それは、ネットワークを進むにしても、どの道筋を進むかということである。つまりどこで分岐するかということだ。それによって千差万別の考え方になってしまう。そこで、ある道筋を進んだとして、そこで「あっ、これはちがうぞ」とおもって、ひとつ手前の分岐点に引き返すということがおこることになる。もっと以前の分岐点にまで戻ることもある。何度も引き返しはおこることだろう。
このジグザグした進行が、「考える」ということの正体なのだ。それが<ハイパーリンク状態>である。思想とは、畢竟、そのジグザグした進行の航跡のことにほかならない。』
Posted by わくわくなひと at 21:34│Comments(2)
この記事へのコメント
難しすぎてコメントできませんが…頭のいい人と話すのは楽しいです(^O^)
Posted by もいさい at 2011年08月09日 12:01
三年前に太宰府でセイゴーさんの講演会に出てみましたが、“編集”という言葉を盛んに言ってたことしか憶えていません。変わった凄い人というオーラしか分かりませんでした。
Posted by わくわくなひと at 2011年08月09日 12:41