2011年07月20日

発見の感覚とは“ハッと感じること”“薪に火がつくこと”

 発見の感覚とは“ハッと感じること”“薪に火がつくこと”山本安英『鶴によせる日々』未来社(1975年2月15日第2刷、1958年3月20日第1刷)。
 珠玉の文章がちりばめられた本でした。何と表現豊かなことか、それも単なる外の世界の描写だけでなく、心の描写の細やかさに恐れ入りました。
 それもポランニーの「暗黙知」みたいな視点を、自分の言葉で語っています。「わかる」「感じる」こと、見たり聴いたりすること、1958年に出版された本ですが、今、最先端と言われる脳科学や心理学の本に書いてあることが、役者という自らの体験から生まれてきた自然で気負いのない文章でつづられています。
 たいした人、本当、奥の深い女性がいて、こんな文章を残していることを日本人として誇りに思いたくなりました。
 “純粋感情”という言葉を初めて知りました。山本安英さんは夕鶴の「つう」を演じてきていますが、「つう」の“純粋感情”にどうやってなりきるかということに苦心したようです。

私と人生
15頁
 つうの場合は、鶴が人間になっているといふ、もちろん大へん特殊な場合ですが、しかしこの純粋感情といふ問題は、私にとって大へん興味がありました。
 俳優が自分でない一人の人物に扮する場合、一番本質的なことは何かといふと、(その人物=役の「解釈」や「理解」ではなくて)一つの感覚としてその人物=役をハッと感じることです。それはある場合には音楽的なとも云へ、ある場合には色彩的なとも云へる一つの感覚です。
 ただそこで非常に重要なことは、そのやうな感覚は、ただぼっとしていることや、あるひは芸術家的なかんなどいふもののみからは決して生まれて来ないといふことです。それはその人物の「解釈」や「理解」のための努力を尽したはてに生まれて来る一つの感覚なのだと思います。


 “役をハッと感じる”。この言葉にハッとしました。

16頁
 かと云ってしかしまた、さういふ努力をしただけではそれは生まれて来ないのだと思います。まづ戯曲をよく読み、その人物の環境、経歴、性格をよく理解し、更にその時代の歴史的背景や社会機構を知り―といふ、さういふ積み重ねは、謂わば積み上げられた薪です。問題はその積み重ねられた薪にパッと火をつけること。それが今云ったハッと感じることなのですが、ではそのパッと火をつけるものは何か。
 はっきりとは云へないけれど、その「もの」は、そのやうにだんだんと積み重ねて来たといふ、そのエネルギーの中にあるやうに私には思へるのです。・・・


 心の中の動きを積み上げられた薪にたとえて、「薪にパッと火をつけること。それが今云ったハッと感じること」と説明していますが、感覚的に共鳴します。
 何かを発見した時の喜び、何かが頭の中でつながって、自分でも思ってみないアイデアが浮かび出てくる時の感覚も、まさにこんな感覚だと思います。

 後は個人的に何となく記録しておきたい山本安英さんの珠玉の文章です。

第一歩から
12頁
 例えばスタニスラフスキーの系譜をひいているラポポルトは、ごく単純な形から、俳優が舞台で真実に役に生きるためのいろいろな日常の習練の方法を大へん解り易く説明してくれているのですが、俳優修業の一番最初の問題である筋肉を自由にするための方法として、ある対象に注意を余念なく集中してみる練習とか、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚等の五官を真実に働かせて、ある対象に注意を集中し、それが情緒的記憶に影響を与えるための補助的な役割としてどんなに大切なものかといういふことを示したり、記憶力を発達させるための方法、想像力を豊かにする養う訓練、日常の身体的行動を精確に再現してみる練習等々舞台に上がるまでの準備としてのいろいろな習練の方法を細かく沢山説いてくれます。

新劇と経営
61頁
 専門家といふのは単にお金の計算や企画の技術をもっているといふだけの意味ではなく、やはりその仕事に、例えば俳優が舞台の上で演技するのに感じると似たやうな、いわば芸術的興奮を経営の仕事そのものに感じつつ、その仕事自体を目的とし、喜びとしてやってゆく人のことなのです。

心の解放
66頁
 そしてかつての私自身をかへりみて今つくづく思うことは、その「わからない」といふことさへ私にはわかっていなかった時があったのだといふことです。

高原への回想
73頁
 三月末の信濃の高原は、陽の当たる斜面にやっと萌え出た浅緑の草を除いては、まだたんぼの大部分を雪がおほって、早春と呼ぶのも少し早過ぎる季節の感じです。風はなくとも空気はつめたく、リュックを背負って雪の下のあぜ道を一足づつさぐりながら歩いて行く私たち二人―私と、勉強中の若い女優さんと―は、そのつめたさのまん中をつらぬいて一直線に射して来る高原の午前十時の太陽を顔の半面に受け、顔のその半面にだけ太陽の熱をはっきりと感じつつ、ふと立ち留って眼をあげると、遙か向こうの紺青に澄んだ空の下に、切りぬいたような冬の山々が、真白なきびしい姿をかっきりとえがいて連なっていました。
・・・
 それだけではいけないということ、たとえばその数十分の美しい体験を、単なる体験としてではなく、この私が生きているというその本質の一部としていかに私が私自身の中に生かし得るかということ、それが今の私にとって一番大きな問題なのです。

愛情について
82頁
 それは結局、俳優は、この人生と人間とを本当の意味において愛し得る人でなければならないということなのではないでしょうか。人間というものに本当に深い愛情を注ぎ得て、初めてその俳優は、単なる模倣ではない生きた人間を舞台の上に新しく生み出し得るのでしょう。そしてそのような愛情は、ただ人生をよく観察するというようなこと以上に、自分の生きる毎日毎日をどれだけ深く生き得るかということに、つまりはその人の魂の深さに懸かっているのだと思います。

幼き日より
97頁
 私は百合の芽を眺めている間に、たしか数日前に死んだと報道のあった名優アレクサンダー・モイッシのことを思い出しました。妙な連想です。水を見て山を思い、山を眺めて雪を思い浮かべるより遙かに縁の遠いような百合とモイッシ。
・・・
夏には青く麦の波が揺れていました。
103頁
「俳優は人間の屑ではなれない。人間の宝石が俳優になるのだ。何故なら神でなくして人間を創造するのは、人間の屑では出来ないことだ」
 築地の俳優となって以来、小山内先生から常に聞かされた言葉はこれでした。

一本の金線
238頁
・・・そして同時に力弱ければ弱いなりに、複雑な織地の中を一本通る金線のやうに、生きにくい現代に仕事を続けて行きたいと思ふ。

一九四五年の日記
十月××日
246頁
・・・
 前を流れるきれいな小川で顔を洗っていると、ふつと、今おばあさんと話しながら自分の頭の中に殆ど無意識に浮かんだいろいろな考えがもう一度浮かんで来た。それを考えながら顔を洗い終わって家の中を掃いてお膳を出して母と朝御飯に向かう。
 人間の頭って不思議なものだ。かうやって後から思い出しているともう十分位かかってしまったけれど、それが一ぺんに頭に浮かんだのはおばあさんと話していたほんの十秒か二十秒の間だった。だから俳優としてこんな微妙な心理の動きを表すということはなかなか―

十二月××日
257頁
・・・よく話しに聞く偉い坊さんの逸話というのもそれだけ切りはなして考えればいかにもすぐれたものだけれど、大抵の場合現実から遊離してしまっているように思う。
 けれどもそこが又難しいのだ。人間はやはり高くならなければならない。清くならなければならない。
 而もそれは、この現実というものの真名かから出発して。




Posted by わくわくなひと at 12:00│Comments(4)
この記事へのコメント
おおおおお~

流石…ですね。

『読書百遍意自ずから通ず』

同じセリフを何度も何度も反芻し、そこからさらに研究を重ねて…
純粋感情の体験をなさったのですね。

そもそも、感情って不思議です。
一瞬一瞬が感情の連続なのに、もう次の瞬間には忘れている。

それを刻み付ける「役者」という仕事にかけた女性。

雁林さんにお会いしなければ、知らずに死んでいたかもしれません。

私も、まずは『薪割り』から…
感謝です。
Posted by もいさい at 2011年07月21日 19:57
「人間の頭って不思議なものだ。かうやって後から思い出しているともう十分位かかってしまったけれど、それが一ぺんに頭に浮かんだのはおばあさんと話していたほんの十秒か二十秒の間だった。」。これも不思議だし脳の可能性を感じますよね。
 僕も薪割り、西鉄電車でコヴィーを読み始めたら、すぐ夢の世界に入って気づいたら天神の一つ前の薬院でした。
Posted by わくわくなひとわくわくなひと at 2011年07月22日 13:01
高原への回想がとても素敵★!この表現は、すぅ~っと気持ちよく入り込みました。

ハッと感じるコトは”薪に火がつくこと”とは、なるほどです。私もいま山へ薪を集めてまわっているところかしら…?
Posted by あや3あや3 at 2011年07月28日 09:41
たとえがうまいですよね。かちかち山のたぬきさんの話しを思い出しました。
Posted by わくわくなひとわくわくなひと at 2011年07月28日 20:12
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