2011年06月16日
人は言葉より多くのことを知ることができる・・・暗黙知
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫(2007年10月20日第四刷、2003年12月10日第一刷)を読みました。電車の中で、日本酒のように、ちびりちびりと読んでましたので、一月はバッグの中に入れっぱなしでした。最近は文字の出力が多くて、入力は少なくなっています。
随分前、野中郁次郎氏の知識創造関連の本の中に、ポランニーの暗黙知のことが引用されており、驚きと新鮮さを感じて流し読みしたことありました。
それから10年近く経って、今度は“創造性や独創性”というテーマを何となく頭の片隅に置いて読んでみました。
序文の「・・・私は科学を感覚的認識の一変種と考え、・・・」という一節から痺れました。この文章は1966年に書かれているのです。原発を支えてきた科学に対しての懐疑が広まっている、2011年の今なら、けっこう出逢う一節かも知れません。
それと訳者あとがきも面白かったです。
ポランニーの英語は諦めの悪いしろものと書いてありました。
ある漠たる「予期」を持って思考を始めるのだが、その進行過程でさまざまな要素が付加されて、段々に一つの全体的な意味が達成されていく。・・・潜在的な意味に誘われて、前のめりに頭を働かせるのだが、確たる正否については、とにかく書いてしまわないと分からない。だから読者もいっしょに動かないといけない。そういう文章であったと思う。
「わかりやすく。」「結論は最初に。」などテクニックばやりの文章術やプレゼン術が花盛りです。でも、自分で独創的に考えて書いていくというのは、こんなことでは?と思って、「いいぞ!」と拍手したくなりました。
暗黙知とは、こんなことらしい。
第1章 暗黙知
・・・私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。・・・認知の多くは言葉に置き換えられないのだ。・・・すなわち、私たちが、その方法以前に、言葉にできるより多くのことを確かに知っていた、ということである。それだけではない。私たちが警察の方法を用いることができるのは、自分が記憶している顔の特徴と、コレクションの中の特徴を、照合するやり方を心得ている場合に限られるのである。しかも私たちは、どういうふうにして照合したのか、言葉にすることはできない。まさにこうした照合のやり方こそ、言葉にすることができない認識が存在することを示している。
このことは言われてみれば、確かにそんな気がするというものです。「科学という感覚的認識の一変種」にとらわれてきた身には、そんな感覚があったはずなのに、ポランニーのように文字や言葉にすることができませんでした。
114頁
・・・誰かを見るということは、無限に存在するその人の精神と肉体に隠れた働きをも見るということなのだ。知覚とはかように底なしに奥深いものなのである。なぜなら、私たちが知覚するのは実在(リアリティ)の一側面であり、したがって数ある実在の側面は、いまだ明かされざる、おそらくいまだ想像されざる、無限の経験に至る手掛かりになるからである。・・・
このことはグループインタビューをマジックミラー越しに聴いて見ているときに感じていました。発言や人の動きや表情、そしてエネルギー・・・。そんな諸々のことを知覚しているうちに、頭の中にいろんなことが浮かんできます。私のその時のメモの中で最も大切なものは、発言内容ではなく、そんな刺激を受けて自分の頭に浮かんだことなのです。それが思いもよらぬ発見につながっていきます。発言内容であれば、何度でも再生できますので、どうでもいいのです。
45頁
・・・ある理論について真の認識が初めて確立されるのは、それが内面化され、経験を解釈するために縦横に活用されるようになってからだ・・・
“わかった”“腹の底からわかった”と思う瞬間は、読んだり、聞いたりした時点ではないですね。そのことについて自分が腹一杯経験していて右往左往したり悩んだりしていて、一文に出逢う。一文に出逢って何となくわかったつもりでいて、似たようなことを経験した瞬間に、「あの人が言ってたのは、こんなことだったのか」と思ったりします。
57~58頁
・・・チェスのプレイヤーたちは、名人が行った勝負を何度も繰り返しては名人の精神の中に入り込み、名人の頭の中にあったものを発見しようとする。
もう少し話を敷衍しよう。上述の二つの事例で、私たちは包括的存在を構成する諸要素の中に入り込む。そのとき、私たちは、包括的存在の首尾一貫性を説明してくれる何ものかに出逢っている。最初の事例では、私たちは身体を巧みに操る個人(person)に出逢い、後者の事例では、精神を巧みに操る個人に出逢っているのだ。
・・・技量を振るっている当人自体、その技量に組織されている個々の要素については、きわめて曖昧にしか語れないものなのだ。・・・さらに科学的探求の場合と同じように、このとき利用される手掛かりの多くは、それが何であるか、最後まで特定されないだろうし、意識に上がらずに終わる可能性だって大いにある。私たちが、技能とかチェスの勝負の秘められた構造に入り込み、その背後にいる個人の力を認識するようになるのは、そういう事情を含んだ努力を介してのことなのである。歴史家が歴史的人物を研究するときも、これと同じ方法が採られるだろう。
暗黙知の習得方法について書いた一文です。消費者の分析合宿で名人と同じ問題について考える。震えるくらいの感動と発見があります。
以下は仕事上?いや自分の研究テーマ上?メモっておけば何らかの啓示を受けそうな文章です。ポランニー風に言えば、今は言葉にできないけれど、隠れた実在(リアリティ)を感じているのかも知れないし、そんなものはなにもない妄想かも知れません。
127頁
・・・つまりそれは科学者の行為なのである。しかし彼が追求するものは彼の創意によるものではない。彼の行為は、彼が発見しようとしている隠れた実在による影響を受けるのだ。科学者は問題を洞察し、それに囚われ続けて、ついには発見へと飛躍するのだが、それらはすべて、始めから終わりまで、外界の対象からの恩義を被っているのだ。したがって、こうしたきわめて個人的な行為においては、我意が存在する余地はまったくない。独創性は、あらゆる段階で、人間精神内の真実を増進させるという責任感によって支配されている。その自由とは完全なる奉仕のことなのだ。
36頁
・・・私たちは、身体的過程が知覚に関与するときの関与の仕方を解明することによって、人間のもっとも高度な創造性を含む、すべての思考の身体的根拠を明らかにすることができるだろう、と。・・・
46頁
言うまでもなく、すべての研究は問題から始められねばならない。研究が成功するのは、問題が妥当な場合に限られるのだ。そして問題が独創的である場合に限って、研究もまた独創的でありうる。・・・問題を考察するとは、隠れた何かを考察することだからだ。それは、まだ包括されていない個々の諸要素に一貫性が存在することを、暗に認識することなのだ。この暗示が真実であるとき、問題もまた妥当なものになる。そして、私たちが期待している包括の可能性を他の誰も見出すことができないとき、それは独創的なものになる。偉大な発見に導く問題を考察するとは、隠れている何かを考察することだけではなく、他の人間が微塵も感づき得ないような何かを考察することでもあるのだ。
・・・
・・・もし何を探し求めているのか分かっているのなら、問題は存在しないのだし、逆に、もし何を探し求めているのか分かっていないのなら、何かを発見できることなど期待できないからだ。
49頁
どうやら、ある発言が真実だと認識するということは、言葉として口にできる以上のことを認識することらしい。しかもその認識による発見が問題を解決したなら、その発見それ自身もまた範囲の定かならぬ予知を伴っていたことになるだろう。
50頁
・・・暗黙知によって、以下の諸点のメカニズムが明らかにされるのだ。(1)問題を妥当に認識する。(2)その解決へと迫りつつあることを感知する自らの感覚に依拠して、科学者が問題を追及する。(3)最後に到達される発見について、いまだ定かならぬ暗示=含意(インプリケーション)を妥当に予期する。
127頁
・・・つまりそれは科学者の行為なのである。しかし彼が追求するものは彼の創意によるものではない。彼の行為は、彼が発見しようとしている隠れた実在による影響を受けるのだ。科学者は問題を洞察し、それに囚われ続けて、ついには発見へと飛躍するのだが、それらはすべて、始めから終わりまで、外界の対象からの恩義を被っているのだ。したがって、こうしたきわめて個人的な行為においては、我意が存在する余地はまったくない。独創性は、あらゆる段階で、人間精神内の真実を増進させるという責任感によって支配されている。その自由とは完全なる奉仕のことなのだ。
146頁
次に、人間が思考することによって、どのように革新が達成されるか検証してみよう。この過程もまた、ある潜在的可能性(ポテンシャル)の現実化として記述することができる。問題を見て、それを追求しようと企てることは、そこに到達できると信じて、ある範囲の潜在的可能性を見ることなのである。
随分前、野中郁次郎氏の知識創造関連の本の中に、ポランニーの暗黙知のことが引用されており、驚きと新鮮さを感じて流し読みしたことありました。
それから10年近く経って、今度は“創造性や独創性”というテーマを何となく頭の片隅に置いて読んでみました。
序文の「・・・私は科学を感覚的認識の一変種と考え、・・・」という一節から痺れました。この文章は1966年に書かれているのです。原発を支えてきた科学に対しての懐疑が広まっている、2011年の今なら、けっこう出逢う一節かも知れません。
それと訳者あとがきも面白かったです。
ポランニーの英語は諦めの悪いしろものと書いてありました。
ある漠たる「予期」を持って思考を始めるのだが、その進行過程でさまざまな要素が付加されて、段々に一つの全体的な意味が達成されていく。・・・潜在的な意味に誘われて、前のめりに頭を働かせるのだが、確たる正否については、とにかく書いてしまわないと分からない。だから読者もいっしょに動かないといけない。そういう文章であったと思う。
「わかりやすく。」「結論は最初に。」などテクニックばやりの文章術やプレゼン術が花盛りです。でも、自分で独創的に考えて書いていくというのは、こんなことでは?と思って、「いいぞ!」と拍手したくなりました。
暗黙知とは、こんなことらしい。
第1章 暗黙知
・・・私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。・・・認知の多くは言葉に置き換えられないのだ。・・・すなわち、私たちが、その方法以前に、言葉にできるより多くのことを確かに知っていた、ということである。それだけではない。私たちが警察の方法を用いることができるのは、自分が記憶している顔の特徴と、コレクションの中の特徴を、照合するやり方を心得ている場合に限られるのである。しかも私たちは、どういうふうにして照合したのか、言葉にすることはできない。まさにこうした照合のやり方こそ、言葉にすることができない認識が存在することを示している。
このことは言われてみれば、確かにそんな気がするというものです。「科学という感覚的認識の一変種」にとらわれてきた身には、そんな感覚があったはずなのに、ポランニーのように文字や言葉にすることができませんでした。
114頁
・・・誰かを見るということは、無限に存在するその人の精神と肉体に隠れた働きをも見るということなのだ。知覚とはかように底なしに奥深いものなのである。なぜなら、私たちが知覚するのは実在(リアリティ)の一側面であり、したがって数ある実在の側面は、いまだ明かされざる、おそらくいまだ想像されざる、無限の経験に至る手掛かりになるからである。・・・
このことはグループインタビューをマジックミラー越しに聴いて見ているときに感じていました。発言や人の動きや表情、そしてエネルギー・・・。そんな諸々のことを知覚しているうちに、頭の中にいろんなことが浮かんできます。私のその時のメモの中で最も大切なものは、発言内容ではなく、そんな刺激を受けて自分の頭に浮かんだことなのです。それが思いもよらぬ発見につながっていきます。発言内容であれば、何度でも再生できますので、どうでもいいのです。
45頁
・・・ある理論について真の認識が初めて確立されるのは、それが内面化され、経験を解釈するために縦横に活用されるようになってからだ・・・
“わかった”“腹の底からわかった”と思う瞬間は、読んだり、聞いたりした時点ではないですね。そのことについて自分が腹一杯経験していて右往左往したり悩んだりしていて、一文に出逢う。一文に出逢って何となくわかったつもりでいて、似たようなことを経験した瞬間に、「あの人が言ってたのは、こんなことだったのか」と思ったりします。
57~58頁
・・・チェスのプレイヤーたちは、名人が行った勝負を何度も繰り返しては名人の精神の中に入り込み、名人の頭の中にあったものを発見しようとする。
もう少し話を敷衍しよう。上述の二つの事例で、私たちは包括的存在を構成する諸要素の中に入り込む。そのとき、私たちは、包括的存在の首尾一貫性を説明してくれる何ものかに出逢っている。最初の事例では、私たちは身体を巧みに操る個人(person)に出逢い、後者の事例では、精神を巧みに操る個人に出逢っているのだ。
・・・技量を振るっている当人自体、その技量に組織されている個々の要素については、きわめて曖昧にしか語れないものなのだ。・・・さらに科学的探求の場合と同じように、このとき利用される手掛かりの多くは、それが何であるか、最後まで特定されないだろうし、意識に上がらずに終わる可能性だって大いにある。私たちが、技能とかチェスの勝負の秘められた構造に入り込み、その背後にいる個人の力を認識するようになるのは、そういう事情を含んだ努力を介してのことなのである。歴史家が歴史的人物を研究するときも、これと同じ方法が採られるだろう。
暗黙知の習得方法について書いた一文です。消費者の分析合宿で名人と同じ問題について考える。震えるくらいの感動と発見があります。
以下は仕事上?いや自分の研究テーマ上?メモっておけば何らかの啓示を受けそうな文章です。ポランニー風に言えば、今は言葉にできないけれど、隠れた実在(リアリティ)を感じているのかも知れないし、そんなものはなにもない妄想かも知れません。
127頁
・・・つまりそれは科学者の行為なのである。しかし彼が追求するものは彼の創意によるものではない。彼の行為は、彼が発見しようとしている隠れた実在による影響を受けるのだ。科学者は問題を洞察し、それに囚われ続けて、ついには発見へと飛躍するのだが、それらはすべて、始めから終わりまで、外界の対象からの恩義を被っているのだ。したがって、こうしたきわめて個人的な行為においては、我意が存在する余地はまったくない。独創性は、あらゆる段階で、人間精神内の真実を増進させるという責任感によって支配されている。その自由とは完全なる奉仕のことなのだ。
36頁
・・・私たちは、身体的過程が知覚に関与するときの関与の仕方を解明することによって、人間のもっとも高度な創造性を含む、すべての思考の身体的根拠を明らかにすることができるだろう、と。・・・
46頁
言うまでもなく、すべての研究は問題から始められねばならない。研究が成功するのは、問題が妥当な場合に限られるのだ。そして問題が独創的である場合に限って、研究もまた独創的でありうる。・・・問題を考察するとは、隠れた何かを考察することだからだ。それは、まだ包括されていない個々の諸要素に一貫性が存在することを、暗に認識することなのだ。この暗示が真実であるとき、問題もまた妥当なものになる。そして、私たちが期待している包括の可能性を他の誰も見出すことができないとき、それは独創的なものになる。偉大な発見に導く問題を考察するとは、隠れている何かを考察することだけではなく、他の人間が微塵も感づき得ないような何かを考察することでもあるのだ。
・・・
・・・もし何を探し求めているのか分かっているのなら、問題は存在しないのだし、逆に、もし何を探し求めているのか分かっていないのなら、何かを発見できることなど期待できないからだ。
49頁
どうやら、ある発言が真実だと認識するということは、言葉として口にできる以上のことを認識することらしい。しかもその認識による発見が問題を解決したなら、その発見それ自身もまた範囲の定かならぬ予知を伴っていたことになるだろう。
50頁
・・・暗黙知によって、以下の諸点のメカニズムが明らかにされるのだ。(1)問題を妥当に認識する。(2)その解決へと迫りつつあることを感知する自らの感覚に依拠して、科学者が問題を追及する。(3)最後に到達される発見について、いまだ定かならぬ暗示=含意(インプリケーション)を妥当に予期する。
127頁
・・・つまりそれは科学者の行為なのである。しかし彼が追求するものは彼の創意によるものではない。彼の行為は、彼が発見しようとしている隠れた実在による影響を受けるのだ。科学者は問題を洞察し、それに囚われ続けて、ついには発見へと飛躍するのだが、それらはすべて、始めから終わりまで、外界の対象からの恩義を被っているのだ。したがって、こうしたきわめて個人的な行為においては、我意が存在する余地はまったくない。独創性は、あらゆる段階で、人間精神内の真実を増進させるという責任感によって支配されている。その自由とは完全なる奉仕のことなのだ。
146頁
次に、人間が思考することによって、どのように革新が達成されるか検証してみよう。この過程もまた、ある潜在的可能性(ポテンシャル)の現実化として記述することができる。問題を見て、それを追求しようと企てることは、そこに到達できると信じて、ある範囲の潜在的可能性を見ることなのである。
Posted by わくわくなひと at 01:33│Comments(0)