2011年02月05日

観光地の景観は農家の苦楽の賜-農業、第4の波

 観光地の景観は農家の苦楽の賜-農業、第4の波岡村良昭『農業、第4の波』2010年11月19日第2刷(同4月1日第1刷)。
 昨年の秋、いただいた一冊。著者は私が若い頃の上司であり、文章のいろはを教えてもらった師です。久々に柔らかく流れるような文章に接し、若い頃の日々を思い出し、懐かしさを感じてしまいました(ご期待に添えず、なかなか思うように文章が書けませんが・・・)。
 著者は農業一筋のジャーナリストです。「いきなりですが、農業がなければ、国はないと思います。」から始まります。「昭和四十五年、農業の減反政策を機として始まった長い閉塞の闇から抜け出して、明るいあすへの扉を開く鍵を探したい」との思いで、戦後六十年の熊本の農業を振り返ります。
 熊本の景観は美しいと思います。この本に書いてあります。千枚田、深田から周年農業に変容した阿蘇盆地農業の美しさ、ミカンブームの光と影を知る美しい景観、ビニールハウスの台地が問う吉次峠からの展望・・・。
 今、美しいと感じる熊本の景観が農家の長年にわたる営みのおかげであることが、流れるような文章で綴られています。
 例えば、こんな感じです。
「・・・冬の農村の色は、もともと暗い、黒い色というイメージが強い。みのりの秋の色が黄金色なら、その次にくる収穫のあとの村の色は黒一色、つまり暗い土の色一色で覆われた。黒い土は、そのぬくもりの力で農作物の生命を育み、まきつけられた種子の発芽を促す。次には黒土の風景は緑色に変わる。黄金色一色の稲作のあとは冬の麦の緑色に染まる。年が明ける。麦の緑は次第に濃さを増していき、広い畑や水田の色合いは濃い緑色を強めていく。やがてくる五、六月の麦秋。野原は再び一面の黄金色に染め上げられる。麦畑は緑の中のヒバリの時期から刈り取りの季節を迎える。六月である。」
九州新幹線全通を目前に控える中、観光地が注目を集めています。その多くは農家の人々の苦楽の賜であることを再認識させられました。

■「千枚田、深田から周年農業に変容-阿蘇盆地農業の美しさ」より
 ふるさとはいつ来ても思い出の昔のままの姿をとどめているという予断は許されない。変わらないと言われてきた村ほど変化が激しい。阿蘇カルデラの内側に広がる阿蘇盆地約四千町歩の水田は、いま美しく区画整理された長方形の水田と、その間を一直線に走る農道と用排水路。直線で区切られた水田一枚一枚の区画にはコンクリート三方張りの用水路が張りめぐらされ、いつでも、必要な量のかんがい用水を取り入れることができるようになっている。かんがい用水が自由に使えることは自分で、計画的に農作物の種類を選び栽培できる条件ができたことを意味する。今から三十余年前まで夢のようなはなしであったことが、いま日常のくらしの中に現実のものとなって姿をあらわしてきたのである。・・・

■「ミカン、ブームの光と影」より
 そんな小天地方のミカン園は近隣の町村のなかでもその美しさが抜群に光って見えた。というのは階段状のミカン園は石垣を築いて開いているが、石垣築きの技術がどの農家も玄人はだしで、本職の石工にも負けないほどの高さを誇っていたということからも推しはかられる。古老たちの話である。いま、小天のミカン園内をあるいてみると、そのことを実感する。熊本県農村景観賞の第一回受賞の栄に輝いたのは小天の下有所地区である。・・・

■「吉次峠からの展望-ビニールハウスの台地は問う」より
 一年で最も寒い季節の一~二月、吉次峠から東方一望に広がる植木台地。台地全体が白一色になる。眼下は白銀、遙かな遠方とは雲と接して明るいグレーとなってかすむ。台地農業の盛況を示す姿である。
 この白や白銀、グレーを装う台地の冬の色はビニールハウス群である。吉次峠は標高二百三十八メートル。明治十(一八七七)年西南戦争-それはわが国最後の国内戦として歴史に知られる-で薩軍と政府軍の激しい攻防戦の舞台となった由緒の地。そこに立って見下ろす東方はるかな台地の色は、いまから百三十年前の一、二月にはどんな色であったか。おそらく麦の色がまだ萌える前の黒一色の畑台地が広がっていたに違いない。
 二十一世紀初頭のいま、吉次峠から見下ろす台地農村の色合いは、標高六百六十五メートルの金峰山頂から南方はるかに展開する熊本平野の色と共通している。また県南、宇城平野から八代平野の色も同じである。さらには熊本空港の南西方向、西方の平野-益城台地の色も同じ白銀である。
 ・・・浮気な消費者は目先を次から次に変えながら“欲望の海”、“新しがりや”の気心を満たしていった。別の言い方をすれば、そんな消費者が、新しい市場を拓いていったということである。
 ハウス農業はこうして農業、農村の色彩を外観、内容ともに変えた。冬の農村の色は、もともと暗い、黒い色というイメージが強い。みのりの秋の色が黄金色なら、その次にくる収穫のあとの村の色は黒一色、つまり暗い土の色一色で覆われた。黒い土は、そのぬくもりの力で農作物の生命を育み、まきつけられた種子の発芽を促す。次には黒土の風景は緑色に変わる。黄金色一色の稲作のあとは冬の麦の緑色に染まる。年が明ける。麦の緑は次第に濃さを増していき、広い畑や水田の色合いは濃い緑色を強めていく。やがてくる五、六月の麦秋。野原は再び一面の黄金色に染め上げられる。麦畑は緑の中のヒバリの時期から刈り取りの季節を迎える。六月である。
 これが農業、農村の昭和二十年代、三十年代までの一年間の変化の波のかたちであった。かつて、農業は、夏は稲、冬は麦の一年二毛作と決まっていた。水田地帯の農業は米と麦の二毛作で一年が成り立っていたといっていい。すべての年中行事は、この米作と麦作の作業に合わせて執り行われた。春まつり、夏まつり、秋まつりは種子まきと豊作の祈りから始まり、夏の手入れのあと収穫感謝のまつりと祈り。これらの季節に人々はお互い往き来をし、たしかめ合い、交流を深める酒盛りをし、神前に感謝と来る年の豊作を祈る。年中行事はこうして季節を追いながら規則正しく、人々のくらしに節目をつくりながら進行した。ダゴもモチもマンジュウも、他のすべての料理もこの祈りとくらしの季節のための供えであった。この季節とともに人々のくらしは節度正しく進行したのである。農耕は人々のくらしをかたちづくり、秩序正しく進行させる文化である。・・・




Posted by わくわくなひと at 15:32│Comments(0)
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