2011年01月12日

【読書一年間の回顧③】・・・“わかる”“ひらめき”“創造

 【読書一年間の回顧③】・・・“わかる”“ひらめき”“創造2010年一年間の我が読書遍歴。
 今日は「③ひらめき、わかる、創造という、何かが生み出される瞬間やメカニズムを知ろうとしていること」の振り返りです。

③“わかる”“ひらめき”“創造”とは?
■井上文勝『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』
・詩が生まれる瞬間が印象的!
・マリーの耳の奥から、かすかな声が湧き上がってきた。マーガレットの母の声か、自分の母の声か・・・。濡れたまぶたを閉じ、うつむいてその声にじっと聞き入った。やがて、さだかでないその繰り返しがはっきりとした言葉になって語りかけてきた。「・・・私のお墓の前にたたずみ泣かないで・・・」。うなずいて目を開けると、引き寄せた買い物の紙袋を破り取り、茶色の紙片にその声を書きつかはじめた。
■松岡正剛『知の編集術 発想・思考を生み出す技法』
・夢中になって遊びを実況放送するのが好きになった。
・「ごっこ」は模倣という学習の基礎を、「しりとり」は言葉やイメージのつながりを学ぶための基礎を、「宝さがし」はヒューリスティック(発見的)な思考やそのための準備をしていく必要性を、それぞれ学習するための基礎にあたっている。
・パイディアはその場に臨んで興奮に入る状態のことを、ルドゥスはわざわざ困難に立ち向かう忘我の意識の状態のことをいう。パイディア的になることもルドゥス的になることも、そこには利得を超えたものがある。無償でもかまわないという気分になってしまうのである。この無償性が重要である。遊びがこうしたパイディア性(興奮)とルドゥス性(困難)をもっていることは、遊びが欲得ずくではなく広まっていく本質をもっていることを示すとともに、ついつい欲得ずくになる大人たちの遊びからは遊びの本質が薄れていったことを説明する。
・見るとは、二度以上見ることである、このマルセル・デュシャンの言葉を忘れないでほしい。
■松本清張・向田邦子『駅路/最後の自画像』
・この本のテーマは「ゴーガンが言ったじゃないか。人間は絶えず子供の犠牲になる、それを繰り返していく、とね。それでどこに新しい芸術が出来、どこに創造があるかと彼は言うのだが、芸術の世界は別として、普通の人間にも平凡な永い人生を歩き、或る駅に到着したとき、今まで耐え忍んだ人生を、ここらで解放してもらいたい、気儘な旅に出直したいということにならないかね。」だと思う。
■宮本輝の芥川賞選評“行間のない文学”
・自分にとって決定的に足りない何かがいったい何であるかについて、結局は、自分で考え抜いて掴んだものしか現場では役に立たないのだ。
■山鳥重『「わかる」とはどういうことか-認識の脳科学』
・考えるというプロセスがなんらかの形で終結すると、わかった・わからないという比較的はっきりした心の変化を感じることが出来ます。わかる・わからないという感情が湧くのです。
・全体像が「わかる」、整理すると「わかる」、筋が通ると「わかる」、空間関係が「わかる」、仕組みが「わかる」、規則に合えば「わかる」
・直感的に「わかる」、まとまることで「わかる」、ルールを発見することで「わかる」、置き換えることで「わかる」
・「わからない」ことに気づく・・・これが「わかる」ための第一歩です。
■M.チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』
・達成する能力を必要とする明確な課題に注意を集中している時、人は最高の気分を味わう。
・最良の瞬間は普通、困難ではあるが価値のある何かを達成しようとする自発的努力の過程で、身体と精神を限界までに働かせ切っている時に生じる。
・意識が統制されている人を特徴づけるのは、思うままに注意を集中させる能力であり、気を散らすものに心を留めないこと、目標を達成するため注意を集中すること、目標達成の後まで注意を持ち越さないことである。これができる人は、日常生活の一般的な過程を楽しんでいるのが普通である。
・人は現実に「外」で起こっていることとは無関係に、ただ意識の内容を変えるだけで自分を幸福にも惨めにもできる。パーソナリティの力だけで、絶望的な状況を克服すべき挑戦対象に変えることのできる人々をだれもが知っている。障害や妨害にもかかわらず頑張り続けるというこの能力こそ、まさにその人に対し他者が尊敬の念を抱く最も大きな特質である。
■大塚英志『ストーリーメーカー 創作のための物語論』
・物語の基本は「行って帰る」。世界中の神話はたった一つの構造からなっている。
・ハリウッド映画の脚本は物語の構造を熟知していて、しかも場面やプロセスを分業とグループワークで創作している。
■松岡正剛「松丸本舗の挑戦 松岡正剛の書棚」
・今の書店は、身体の記憶力を軽視してシステムとしての効率性を重視するあまりか、画一的な本の並びになっていますね。それでは頭の中まで単純化させるようで僕は不満だった。丸松本舗はそうしたことへの挑戦です。
■河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』
・題あるいは名前が作曲と演奏との拮抗で決定的に閃いた時
・そういう喜びの体験こそが、創作というものを教えてくれる大きな機会の一つ
・健康人の脈搏がキッカリ、キッカリと極まっていく、その感じ
・創作衝動には二種の衝動がある。一つは、文学作品というものを書きたくてならない、憧憬と欲求不満が混合したような気持の蠢動である。その気持ちは、小説というものを書く以外に納まりようのないことを訴えてやまない。もう一つは、ある文学作品を書きたい気持ちの蠢動である。この場合には、既に書きたいことがある。モチーフ、つまり何故そのことを書きたいか、創作の動機が心を突き動かしている。その実感が鮮烈であればあるほど、創作意欲が掻き立てられる。
・<それ>は書きたいものなのか、書きたいことなのか。書きたいものと書きたいこととは丸でちがう。書きたいものとしてだけで書くのであれば、ただのお話にしかならない。その話をあれこれと作り変えても、作りものめいてゆくだけである。書きたいこと―自分の精神と切り結んだモチーフを得て創作衝動が発生している時には、事柄上はその話のままであっても、創造性が生まれて、ただのお話ではなくなる。
・これまでに、作家のみならず、世の人々が誰も思いもしなかったであろうこと、考えもしなかったであろうこと、想像しもしなかったであろうことを書きたいのである。
・おもしろい作品は、読んでいる間の歓びに加えて、読み終えた時の醍醐味がまた格別である。
・常にその作品の世界が頭と胸とを満たしていて、次々に何でも見え、聞こえてくるだろう。作品の発育に役立つ目撃やふとした人の言葉に出会ったり、過去に経験したそうした事が不意に甦ってきたりもするだろう。
・作品を早目のところで裁ちきると(裁ちきろうと見定めると)、文学的エネルギーに充ちた作品は勿論、充分とは言い難い作品でもそれなりに、そこで堰かれたエネルギーの真横への噴出が作者に実感される。
・最も書きたいことは何か、どこに力点をおくべきか、とよく考えることで、その作品の創作の進め方がおのずから分かってくる。「筋」「起承転結」に囚われずに、転換も飛躍も自由に行えばよい。




Posted by わくわくなひと at 20:08│Comments(0)
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