2010年12月26日
面白小説が生き方を教えてくれる・・・児玉清さん
12月5日、福岡県読書推進大会を兼ねた2010国民読書年の記念イベント「読書まつり」が福岡市天神のエルガーラホールで開催されました。その模様が今日26日付けの西日本新聞に載っていました。
このイベントの中で、読書家として知られる俳優・児玉清さんの記念講演の要約がまとめられていました。
生で聞きたかったです。感動したかも知れません。今年を締めくくるのにふさわしい話が載っていました。
以前、このブログで紹介した河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』文春文庫(2005年10月10日第1刷)で、「私は文学作品から、人生の指針や教唆を与えられたことは一度もない。」と書いてありました。しかし、これは創作者、小説家と言える人の言葉で、そうは言われても人生の指針や教唆を求めて小説を読み始める人は多いと思います。それも人生の指針を求めて読み始めて、夢中になり、「読んでいる間の歓びに加えて、読み終えた時の醍醐味がまた格別である。」を味わうのではないでしょうか。つまるところ書き手側からと読む側からと少し視点は異なるようだけど、本質の部分は同じことを言っているような気がしました。字面ではなく脳の奥深いところで、そんな感想が浮かんできました。
読書家としての児玉清さんのお考えは、以下の通りです。
C・Sフォレスターの海洋冒険小説、アリステア・マクリーンの戦争物などに夢中になりました。さらにケン・フォレットは、あらゆる階層の人物・風俗を詳細に描き出します。彼らイギリスの作家の面白小説は、不撓不屈の精神に満ちています。思うように演技ができず、荒れる気持ちを治めようのないときに本を開くと、たちどころに面白小説の中に引き込まれました。そこにはあらゆる冒険が待っていて、人生に対する勇気を得られるのです。
人間の生き方は誰が教えてくれるのか―私は面白小説、つまりフィクションだと思います。絶望があれば希望があるように、フィクションという仮想世界があるからこそ、現実の世界を見極められます。さらに面白小説は、世間のあらゆるものを取り上げ、さまざまな人間を描いています。人生は本の数だけある。本の中で人生を繰り返すことで、生きるとはどういうことか教えてくれるのです。
<参考>
■小説は人生の指針ではない(河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』文春文庫)
いかに生きるべきかを人は小説に求める、という見方がある。作者もまた、いかに生きるべきかの追求のために書く、とも考えられているようである。実際、「いかに生きるべきか」や「この人を見よ」の姿勢の強い小説も珍しくないのだが、私はその種のものからは、人生の狭さ、人間というものの矮小さを感じさせられるだけである。
私は文学作品から、人生の指針や教唆を与えられたことは一度もない。もともと、期待したこともない。また、昔の若い人たちは教養のために文学を読んだが、今は教養のためには読まなくなった、とか。しかし、私は昔の若い人だったけれども、教養のために文学を読むことなど考えもしなかった。おもしろいからこそ読み、今もそうである。
おもしろい作品は、読んでいる間の歓びに加えて、読み終えた時の醍醐味がまた格別である。その作品の内容が、仮りに事柄上は荒々しくても、あるいは主人公の自殺をもって締めくくられていようと、人間というもの、自然を含めて此の世というものが、これほど深い味わいのあるものだったのかと、人間とこの世というものが、その作品を読むまえよりも新鮮さを帯びて感じされてくる。自分がこの世に在り、人間のひとりであることに、歓びと感謝の思いを惹き起こされる時さえある。一言でいえば、私はそのようなものこそ、よい作品であると思っている。
このイベントの中で、読書家として知られる俳優・児玉清さんの記念講演の要約がまとめられていました。
生で聞きたかったです。感動したかも知れません。今年を締めくくるのにふさわしい話が載っていました。
以前、このブログで紹介した河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』文春文庫(2005年10月10日第1刷)で、「私は文学作品から、人生の指針や教唆を与えられたことは一度もない。」と書いてありました。しかし、これは創作者、小説家と言える人の言葉で、そうは言われても人生の指針や教唆を求めて小説を読み始める人は多いと思います。それも人生の指針を求めて読み始めて、夢中になり、「読んでいる間の歓びに加えて、読み終えた時の醍醐味がまた格別である。」を味わうのではないでしょうか。つまるところ書き手側からと読む側からと少し視点は異なるようだけど、本質の部分は同じことを言っているような気がしました。字面ではなく脳の奥深いところで、そんな感想が浮かんできました。
読書家としての児玉清さんのお考えは、以下の通りです。
C・Sフォレスターの海洋冒険小説、アリステア・マクリーンの戦争物などに夢中になりました。さらにケン・フォレットは、あらゆる階層の人物・風俗を詳細に描き出します。彼らイギリスの作家の面白小説は、不撓不屈の精神に満ちています。思うように演技ができず、荒れる気持ちを治めようのないときに本を開くと、たちどころに面白小説の中に引き込まれました。そこにはあらゆる冒険が待っていて、人生に対する勇気を得られるのです。
人間の生き方は誰が教えてくれるのか―私は面白小説、つまりフィクションだと思います。絶望があれば希望があるように、フィクションという仮想世界があるからこそ、現実の世界を見極められます。さらに面白小説は、世間のあらゆるものを取り上げ、さまざまな人間を描いています。人生は本の数だけある。本の中で人生を繰り返すことで、生きるとはどういうことか教えてくれるのです。
<参考>
■小説は人生の指針ではない(河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』文春文庫)
いかに生きるべきかを人は小説に求める、という見方がある。作者もまた、いかに生きるべきかの追求のために書く、とも考えられているようである。実際、「いかに生きるべきか」や「この人を見よ」の姿勢の強い小説も珍しくないのだが、私はその種のものからは、人生の狭さ、人間というものの矮小さを感じさせられるだけである。
私は文学作品から、人生の指針や教唆を与えられたことは一度もない。もともと、期待したこともない。また、昔の若い人たちは教養のために文学を読んだが、今は教養のためには読まなくなった、とか。しかし、私は昔の若い人だったけれども、教養のために文学を読むことなど考えもしなかった。おもしろいからこそ読み、今もそうである。
おもしろい作品は、読んでいる間の歓びに加えて、読み終えた時の醍醐味がまた格別である。その作品の内容が、仮りに事柄上は荒々しくても、あるいは主人公の自殺をもって締めくくられていようと、人間というもの、自然を含めて此の世というものが、これほど深い味わいのあるものだったのかと、人間とこの世というものが、その作品を読むまえよりも新鮮さを帯びて感じされてくる。自分がこの世に在り、人間のひとりであることに、歓びと感謝の思いを惹き起こされる時さえある。一言でいえば、私はそのようなものこそ、よい作品であると思っている。
Posted by わくわくなひと at 14:01│Comments(2)
この記事へのコメント
「小説は人生の指針ではない」ということを教えて頂いてから、私もたまに小説を読むようになりました。
世間知らずな私は、小説を読むことで価値観に揺さぶりをかけます。
世間知らずな私は、小説を読むことで価値観に揺さぶりをかけます。
Posted by あや3 at 2010年12月28日 13:08
読み方は少なくとも二つありそうですね。
読みたいから読む、何かを得ようとして読む。
どちらがいいということはなさそうです。
読みたいから読む、何かを得ようとして読む。
どちらがいいということはなさそうです。
Posted by わくわくなひと at 2010年12月28日 23:56