2010年12月06日
さまざまな書籍にある“ひらめき”“独創”“メラキア”の記述
いろんな本で独創のプロセスやひらめきの瞬間などが解説されています。仕事の途中の原稿ですが、興味のある方はぜひご一読ください。
下條信輔さんは、脳内での“ひらめき”の組織化、脳内のひらめきや独創のメカニズムなどを解説するとともに、独創に必要なしつこさと執念、クリエイティブな人の思考方法を紹介しています。
茂木健一郎さんも、創造には経験と意欲が必要なこと、ひらめきの能力は習慣化できること、喜びと苦しみが表裏一体であることなどを解説しています。シカゴ大学の心理学者・チクセントミハイさんも、茂木さんと同様に、最良の瞬間は限界から生まれること、幸福感は意識も持ち方次第であるとしています。
こういった学者だけでなく小説家の河野多惠子さんも、小説家のひらめきや創造のプロセスを細かく描いています。芸術家の岡本太郎さんは、梅澤の言うメラキア的発想をする人だったことが著書を読んで分かりました。
■下條信輔『サブリミナル・インパクト -情動と潜在認知の現代』ちくま新書(2008年12月10日第1刷)
(脳内での“ひらめき”の組織化)
前意識の知は、意識の知と無意識の知の境界領域、またはインターフェースにあたります。人が集中して考えたり、あるいはぼんやりと意識せずに考えるともなく考えているときに、突然天啓が閃く。スポーツによる身体的刺激や、音楽による情動の高揚、他人がまったく別の文脈で言った何気ない一言などが、しばしばきっけかになるようです。こういう場合には、新たな知は外から直接与えられたわけではなく、といって内側にあらかじめ存在していたとも言えません。その両者の間でスパークし「組織化」されたのです。
(「あちらから」やってくると感じる理由)
突然「あちらから」やってくる。あるいは天啓のように「閃く」。・・・潜在認知の過程から顕在認知の領域に結果が読み出されるときに共通する「現象的な特徴」なのです。受け身の、また偶然を装った立ち現れ方をするのは、それが潜在認知の領域=私の中の他人の領域からやってくるからです。一方予感できるのは、それにもかかわらずその知が潜在的には知られているからです。このように考える以外には、「能動的なはずなのに受動的な立ち現れ方をする」という一見矛盾に満ちた奇妙な立ち現れ方を、理解する術はないと考えます。ただ、受け身の立ち現れ方をするにもかかわらず、飛び抜けた妙手は多くの場合、打たれたとたんにそれと認知されます。
(独創にはしつこさと執念が必要)
独創的な洞察の成立するメカニズムを理解するうえで、忘れてはならない要素です。それはしつこさや執念、これです。・・・独創的な洞察に至るには周辺/辺境を探索する必要がある。それも外界からの刺激と内的な欲求との間の「偶発的な」スパーク、というかたちをとることが多いので、探索 /接触の頻度が高いほどチャンスも多く到来する。・・・次に、自分のすぐ脇を大きい獲物(洞察のタネ)が泳ぎ去ろうとするとき、めざとくそれを見つけてキャッチする必要がある。それはいつ何時来るかわからない(来ないかも知れない)ので、目を光らせている持続的な執念が必要・・・
(クリエイティブな人の定義)
クリエイティブな人とは・・・「全体的な状況を把握し、顕在知(顕在認知過程)と暗黙知(潜在認知過程)との間を自由に往還しつつ、考え続けられる人(能力)」と答えてみることができそうです。
■茂木健一郎『脳を活かす仕事術 「わかる」を「できる」に変える』PHP研究所(2008年10月23日第1版第3刷)
(創造、経験、意欲の関係)
人間は外部からの情報を受け取った時、それを記憶として脳の側頭葉に蓄えていきます。第2章でも述べましたが、脳に入力された情報や記憶は、運動系の出力を経て「意味付け」をされて初めて、他の状況などに応用可能な「経験」となります。そして、側頭葉に蓄えられている「経験」が、意識を司る前頭葉の方針に従って編集される時、新しいものが生み出されます。つまり「経験」という要素がないと創造性は発揮できないのです。
次に大切なのが「意欲」です。
頭の中で、「これをやりたい」や「これがいい」といった意欲や価値判断を司っているのは前頭葉です。
アイデアが必要になった時、まず前頭葉が側頭葉に「こういうものが欲しいんだけど、何か役立ちそうな経験はない?」とリクエストを送ります。すると、側頭葉は一番近いものを出そうと、組み合わせや結びつきを変えたりと、試行錯誤を重ねます。そして、様々な記憶中から、「これはどうですか?」「こっちは?」と、次から次へと前頭葉に送っていきます。
前頭葉はそれをもとに「これは違う」「こっちはちょっと近い」と、価値判断をしながらやり取りを繰り返します。やがて「これだ!」というのが見つかった瞬間が、創造性を発揮してアイデアを生み出した時になるわけです。
■茂木健一郎『ひらめきの導火線 トヨタとノーベル賞』PHP新書(2008年9月2日第1版第1刷)
(習慣化によって高まる“ひらめき”の力)
・創造性は、経験と意欲が合わさって生まれる。私たちが生きていく中で得た知識や経験は、脳の中の側頭葉に蓄積される。それを、前頭葉で生まれる意欲や価値観が引き出してくれる。
・創造性を高めたければ、意欲と経験を結ぶ回路をうまくつなげるようにすればいい。回路は日々使えば使うほど太くなり、創造性は増強されていく。反対に、ごくたまにしか使わないと回路は細ってしまう。習慣化によって、だれもがひらめきの力を高めることができる。
(“ひらめき”と良質の喜び)
・考え続け、探し続ける過程は、とても苦しい。けれど、その苦しみを経てひらめきにたどり着いたときほど、脳が喜ぶことはない。お金をもらうより、社会的地位を得ることより、はるかに良質の喜びを脳にもたらす。
■茂木健一郎『欲望する脳』集英社新書(2007年12月25日第三刷)
(苦しみと喜びの深い結びつき)
人生においては、「苦しいこと」がしばしば「嬉しいこと」と深く結びついているのは、一体どうしてなのだろうか。もともとはつらかったはずの様々なことに慣れ親しむ。やがて、その苦しみの底からかすかな甘みが感じられてくるようになる。そして、ふと気が付くと、ある種の苦しみこそが人生の掛け替えのない喜びを導き出すための呼び水であることを知る。
元来、脳の中で「報酬」を表すドーパミンは、「サプライズ」を好むように設計されている。嬉しいことがたとえあったとしても、それが予想されたものであると効果がない。果たして与えられるのかどうか、わからない時にこそドーパミン細胞は盛んに活動する。その中に含まれている「情報量」が多くなれば、ドーパミンは放出されないのである。
■M.チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』世界思想社(2009年9月20日第10刷、1996年8月20日第1刷)
(限界から生まれる最良の瞬間)
最良の瞬間は普通、困難ではあるが価値のある何かを達成しようとする自発的努力の過程で、身体と精神を限界にまで働かせ切っている時に生じる。
(注意の集中と楽しみ)
意識が統制されている人を特徴づけるのは、思うままに注意を集中させる能力であり、気を散らすものに心を留めないこと、目標を達成するため注意を集中すること、目標達成の後まで注意を持ち越さないことである。これができる人は、日常生活の一般的な過程を楽しんでいるのが普通である。
(意識と幸福感の関係)
人は現実に「外」で起こっていることとは無関係に、ただ意識の内容を変えるだけで自分を幸福にも惨めにもできる。パーソナリティの力だけで、絶望的な状況を克服すべき挑戦対象に変えることのできる人々をだれもが知っている。障害や妨害にもかかわらず頑張り続けるというこの能力こそ、まさにその人に対し他者が尊敬の念を抱く最も大きな特質である。
■河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』文春文庫(2005年10月10日第1刷)。
(小説家の“ひらめき”と喜び体験)
書きたい題材、モチーフがしっかり決まっているつもりでも、題なり、名前なりが定まらない時には、書きたい題材、モチーフが、まだ本当には生きはじめていないことが多い。だから、まだ書き出すのは早いのだ。題あるいは名前が作曲と演奏との拮抗で決定的に閃いた時には、書きたい題材、モチーフが本当に生きはじめたことを実感させるのであって、そういう喜びの体験こそが、創作というものを教えてくれる大きな機会の一つと言えるのである。
(小説家における創造プロセス)
創作衝動には二種の衝動がある。一つは、文学作品というものを書きたくてならない、憧憬と欲求不満が混合したような気持の蠢動である。その気持ちは、小説というものを書く以外に納まりようのないことを訴えてやまない。もう一つは、ある文学作品を書きたい気持ちの蠢動である。この場合には、既に書きたいことがある。モチーフ、つまり何故そのことを書きたいか、創作の動機が心を突き動かしている。その実感が鮮烈であればあるほど、創作意欲が掻き立てられる。創造力は具体的に作品を生み出す力のことで、創作衝動すなわち創造力ではないが、創作衝動がなければ創造力を示すことは不可能なのである。
・・・要するに、書きたいことの発見によって後者の意味での創作衝動(以下、この言葉は、すべてその意味)が発動するのである。ところが、それを発見する方法と言えるものはないのだ。ただ、文学作品の創作では、書きたいことは作者の心―精神に根ざしたものであってこそ、創作衝動はそれらしい力を示すのである。
例えば、自分の知っている人物でも、ひとの話で聞いた人物でも、誰でもよいが、ある人物のある行為を見るなり、聞くなりして、非常に興味を覚えたとする。それを作品に書きたいと思った時、<それ>は書きたいものなのか、書きたいことなのか。書きたいものと書きたいこととは丸でちがう。書きたいものとしてだけで書くのであれば、ただのお話にしかならない。その話をあれこれと作り変えても、作りものめいてゆくだけである。書きたいこと―自分の精神と切り結んだモチーフを得て創作衝動が発生している時には、事柄上はその話のままであっても、創造性が生まれて、ただのお話ではなくなる。あるいは、書きたいことから生じた想像力の支配によって、聞いた話とは全くちがうものになった作品には、作りものではなくて真実がある。また、ある人物の行為の話というような手がかりも、何かのヒントもなくて、突然モチーフを思いつく場合も勿論ある。そのモチーフが作者の精神に根ざしているものであれば、作品の具体的な構想はおのずから膨らんでゆくはずである。
(小説家における発想の転換や飛躍)
創作過程で終始、非常に意を用いるべきことは、モチーフの強い把握であり、その深く鋭い表現である。最も書きたいことは何か、どこに力点をおくべきか、とよく考えることで、その作品の創作の進め方がおのずから分かってくる。「筋」「起承転結」に囚われずに、転換も飛躍も自由に行えばよい。といっても、転換や飛躍が単なる思いつきや独りよがりであってはならない。モチーフの強い把握から促され、その深い鋭い表現のために生まれてきたものでなくてはならない。・・・導入部がしっかり書かれておれば、その作品で最も書きたいことは何か、どこに力点をおくべきかということが、その時もしっかり頭にあれば、導入部の<気配>が、次に書くべきブロック―つまり書きたいブロックを自然に告げ識らせてくれるのである。そして、そのブロックがモチーフの深い鋭い表現を担い得ておれば、そこから次のブロックが生まれてくる。先行のブロックとの間に飛躍や断絶があろうと(あるいはなくても)、「筋」「起承転結」指向ではあり得ない、本質的な脈略、呼応が存在する。
■岡本太郎『自分の中に毒を持て あなたは“常識人間を捨てられるか”』青春出版社(青春文庫)、1988年
(岡本太郎の逆説的発想法)
・・・ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。誰だって人間は弱いし、自分が大事だから、逃げたがる。頭で考えて、いい方を選ぼうなんて思ってたら、何とかかんとか理屈をつけて安全な方に行ってしまうものなのだ。
かまわないから、こっちに行ったら駄目だ、と思う方に賭ける。
瀬戸内晴美はぼくに最初に会った頃、それを聞いてショックを受け、以来それを実行してきたと言っている。彼女はちゃんと食えているし、それ以上、堂々とやってるけれど、覚悟はそこにあるんだ。ほんとうに生きるっていうのは、そういうことだ。
(岡本太郎による非常識反転発想・メラキア的発想の例)
・まずくいった方が面白い
・失敗したらなお面白い
・つまらなかったらやめればいい
・三日坊主でかまわない
・三日坊主になるという“計画”をもったっていい
・うまくいくとか、いかないとか、そんなことはどうでもいい
・下手なら、むしろ下手こそいい
・行きづまったほうがおもしろい
・強くならなくていい
下條信輔さんは、脳内での“ひらめき”の組織化、脳内のひらめきや独創のメカニズムなどを解説するとともに、独創に必要なしつこさと執念、クリエイティブな人の思考方法を紹介しています。
茂木健一郎さんも、創造には経験と意欲が必要なこと、ひらめきの能力は習慣化できること、喜びと苦しみが表裏一体であることなどを解説しています。シカゴ大学の心理学者・チクセントミハイさんも、茂木さんと同様に、最良の瞬間は限界から生まれること、幸福感は意識も持ち方次第であるとしています。
こういった学者だけでなく小説家の河野多惠子さんも、小説家のひらめきや創造のプロセスを細かく描いています。芸術家の岡本太郎さんは、梅澤の言うメラキア的発想をする人だったことが著書を読んで分かりました。
■下條信輔『サブリミナル・インパクト -情動と潜在認知の現代』ちくま新書(2008年12月10日第1刷)
(脳内での“ひらめき”の組織化)
前意識の知は、意識の知と無意識の知の境界領域、またはインターフェースにあたります。人が集中して考えたり、あるいはぼんやりと意識せずに考えるともなく考えているときに、突然天啓が閃く。スポーツによる身体的刺激や、音楽による情動の高揚、他人がまったく別の文脈で言った何気ない一言などが、しばしばきっけかになるようです。こういう場合には、新たな知は外から直接与えられたわけではなく、といって内側にあらかじめ存在していたとも言えません。その両者の間でスパークし「組織化」されたのです。
(「あちらから」やってくると感じる理由)
突然「あちらから」やってくる。あるいは天啓のように「閃く」。・・・潜在認知の過程から顕在認知の領域に結果が読み出されるときに共通する「現象的な特徴」なのです。受け身の、また偶然を装った立ち現れ方をするのは、それが潜在認知の領域=私の中の他人の領域からやってくるからです。一方予感できるのは、それにもかかわらずその知が潜在的には知られているからです。このように考える以外には、「能動的なはずなのに受動的な立ち現れ方をする」という一見矛盾に満ちた奇妙な立ち現れ方を、理解する術はないと考えます。ただ、受け身の立ち現れ方をするにもかかわらず、飛び抜けた妙手は多くの場合、打たれたとたんにそれと認知されます。
(独創にはしつこさと執念が必要)
独創的な洞察の成立するメカニズムを理解するうえで、忘れてはならない要素です。それはしつこさや執念、これです。・・・独創的な洞察に至るには周辺/辺境を探索する必要がある。それも外界からの刺激と内的な欲求との間の「偶発的な」スパーク、というかたちをとることが多いので、探索 /接触の頻度が高いほどチャンスも多く到来する。・・・次に、自分のすぐ脇を大きい獲物(洞察のタネ)が泳ぎ去ろうとするとき、めざとくそれを見つけてキャッチする必要がある。それはいつ何時来るかわからない(来ないかも知れない)ので、目を光らせている持続的な執念が必要・・・
(クリエイティブな人の定義)
クリエイティブな人とは・・・「全体的な状況を把握し、顕在知(顕在認知過程)と暗黙知(潜在認知過程)との間を自由に往還しつつ、考え続けられる人(能力)」と答えてみることができそうです。
■茂木健一郎『脳を活かす仕事術 「わかる」を「できる」に変える』PHP研究所(2008年10月23日第1版第3刷)
(創造、経験、意欲の関係)
人間は外部からの情報を受け取った時、それを記憶として脳の側頭葉に蓄えていきます。第2章でも述べましたが、脳に入力された情報や記憶は、運動系の出力を経て「意味付け」をされて初めて、他の状況などに応用可能な「経験」となります。そして、側頭葉に蓄えられている「経験」が、意識を司る前頭葉の方針に従って編集される時、新しいものが生み出されます。つまり「経験」という要素がないと創造性は発揮できないのです。
次に大切なのが「意欲」です。
頭の中で、「これをやりたい」や「これがいい」といった意欲や価値判断を司っているのは前頭葉です。
アイデアが必要になった時、まず前頭葉が側頭葉に「こういうものが欲しいんだけど、何か役立ちそうな経験はない?」とリクエストを送ります。すると、側頭葉は一番近いものを出そうと、組み合わせや結びつきを変えたりと、試行錯誤を重ねます。そして、様々な記憶中から、「これはどうですか?」「こっちは?」と、次から次へと前頭葉に送っていきます。
前頭葉はそれをもとに「これは違う」「こっちはちょっと近い」と、価値判断をしながらやり取りを繰り返します。やがて「これだ!」というのが見つかった瞬間が、創造性を発揮してアイデアを生み出した時になるわけです。
■茂木健一郎『ひらめきの導火線 トヨタとノーベル賞』PHP新書(2008年9月2日第1版第1刷)
(習慣化によって高まる“ひらめき”の力)
・創造性は、経験と意欲が合わさって生まれる。私たちが生きていく中で得た知識や経験は、脳の中の側頭葉に蓄積される。それを、前頭葉で生まれる意欲や価値観が引き出してくれる。
・創造性を高めたければ、意欲と経験を結ぶ回路をうまくつなげるようにすればいい。回路は日々使えば使うほど太くなり、創造性は増強されていく。反対に、ごくたまにしか使わないと回路は細ってしまう。習慣化によって、だれもがひらめきの力を高めることができる。
(“ひらめき”と良質の喜び)
・考え続け、探し続ける過程は、とても苦しい。けれど、その苦しみを経てひらめきにたどり着いたときほど、脳が喜ぶことはない。お金をもらうより、社会的地位を得ることより、はるかに良質の喜びを脳にもたらす。
■茂木健一郎『欲望する脳』集英社新書(2007年12月25日第三刷)
(苦しみと喜びの深い結びつき)
人生においては、「苦しいこと」がしばしば「嬉しいこと」と深く結びついているのは、一体どうしてなのだろうか。もともとはつらかったはずの様々なことに慣れ親しむ。やがて、その苦しみの底からかすかな甘みが感じられてくるようになる。そして、ふと気が付くと、ある種の苦しみこそが人生の掛け替えのない喜びを導き出すための呼び水であることを知る。
元来、脳の中で「報酬」を表すドーパミンは、「サプライズ」を好むように設計されている。嬉しいことがたとえあったとしても、それが予想されたものであると効果がない。果たして与えられるのかどうか、わからない時にこそドーパミン細胞は盛んに活動する。その中に含まれている「情報量」が多くなれば、ドーパミンは放出されないのである。
■M.チクセントミハイ『フロー体験 喜びの現象学』世界思想社(2009年9月20日第10刷、1996年8月20日第1刷)
(限界から生まれる最良の瞬間)
最良の瞬間は普通、困難ではあるが価値のある何かを達成しようとする自発的努力の過程で、身体と精神を限界にまで働かせ切っている時に生じる。
(注意の集中と楽しみ)
意識が統制されている人を特徴づけるのは、思うままに注意を集中させる能力であり、気を散らすものに心を留めないこと、目標を達成するため注意を集中すること、目標達成の後まで注意を持ち越さないことである。これができる人は、日常生活の一般的な過程を楽しんでいるのが普通である。
(意識と幸福感の関係)
人は現実に「外」で起こっていることとは無関係に、ただ意識の内容を変えるだけで自分を幸福にも惨めにもできる。パーソナリティの力だけで、絶望的な状況を克服すべき挑戦対象に変えることのできる人々をだれもが知っている。障害や妨害にもかかわらず頑張り続けるというこの能力こそ、まさにその人に対し他者が尊敬の念を抱く最も大きな特質である。
■河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』文春文庫(2005年10月10日第1刷)。
(小説家の“ひらめき”と喜び体験)
書きたい題材、モチーフがしっかり決まっているつもりでも、題なり、名前なりが定まらない時には、書きたい題材、モチーフが、まだ本当には生きはじめていないことが多い。だから、まだ書き出すのは早いのだ。題あるいは名前が作曲と演奏との拮抗で決定的に閃いた時には、書きたい題材、モチーフが本当に生きはじめたことを実感させるのであって、そういう喜びの体験こそが、創作というものを教えてくれる大きな機会の一つと言えるのである。
(小説家における創造プロセス)
創作衝動には二種の衝動がある。一つは、文学作品というものを書きたくてならない、憧憬と欲求不満が混合したような気持の蠢動である。その気持ちは、小説というものを書く以外に納まりようのないことを訴えてやまない。もう一つは、ある文学作品を書きたい気持ちの蠢動である。この場合には、既に書きたいことがある。モチーフ、つまり何故そのことを書きたいか、創作の動機が心を突き動かしている。その実感が鮮烈であればあるほど、創作意欲が掻き立てられる。創造力は具体的に作品を生み出す力のことで、創作衝動すなわち創造力ではないが、創作衝動がなければ創造力を示すことは不可能なのである。
・・・要するに、書きたいことの発見によって後者の意味での創作衝動(以下、この言葉は、すべてその意味)が発動するのである。ところが、それを発見する方法と言えるものはないのだ。ただ、文学作品の創作では、書きたいことは作者の心―精神に根ざしたものであってこそ、創作衝動はそれらしい力を示すのである。
例えば、自分の知っている人物でも、ひとの話で聞いた人物でも、誰でもよいが、ある人物のある行為を見るなり、聞くなりして、非常に興味を覚えたとする。それを作品に書きたいと思った時、<それ>は書きたいものなのか、書きたいことなのか。書きたいものと書きたいこととは丸でちがう。書きたいものとしてだけで書くのであれば、ただのお話にしかならない。その話をあれこれと作り変えても、作りものめいてゆくだけである。書きたいこと―自分の精神と切り結んだモチーフを得て創作衝動が発生している時には、事柄上はその話のままであっても、創造性が生まれて、ただのお話ではなくなる。あるいは、書きたいことから生じた想像力の支配によって、聞いた話とは全くちがうものになった作品には、作りものではなくて真実がある。また、ある人物の行為の話というような手がかりも、何かのヒントもなくて、突然モチーフを思いつく場合も勿論ある。そのモチーフが作者の精神に根ざしているものであれば、作品の具体的な構想はおのずから膨らんでゆくはずである。
(小説家における発想の転換や飛躍)
創作過程で終始、非常に意を用いるべきことは、モチーフの強い把握であり、その深く鋭い表現である。最も書きたいことは何か、どこに力点をおくべきか、とよく考えることで、その作品の創作の進め方がおのずから分かってくる。「筋」「起承転結」に囚われずに、転換も飛躍も自由に行えばよい。といっても、転換や飛躍が単なる思いつきや独りよがりであってはならない。モチーフの強い把握から促され、その深い鋭い表現のために生まれてきたものでなくてはならない。・・・導入部がしっかり書かれておれば、その作品で最も書きたいことは何か、どこに力点をおくべきかということが、その時もしっかり頭にあれば、導入部の<気配>が、次に書くべきブロック―つまり書きたいブロックを自然に告げ識らせてくれるのである。そして、そのブロックがモチーフの深い鋭い表現を担い得ておれば、そこから次のブロックが生まれてくる。先行のブロックとの間に飛躍や断絶があろうと(あるいはなくても)、「筋」「起承転結」指向ではあり得ない、本質的な脈略、呼応が存在する。
■岡本太郎『自分の中に毒を持て あなたは“常識人間を捨てられるか”』青春出版社(青春文庫)、1988年
(岡本太郎の逆説的発想法)
・・・ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。誰だって人間は弱いし、自分が大事だから、逃げたがる。頭で考えて、いい方を選ぼうなんて思ってたら、何とかかんとか理屈をつけて安全な方に行ってしまうものなのだ。
かまわないから、こっちに行ったら駄目だ、と思う方に賭ける。
瀬戸内晴美はぼくに最初に会った頃、それを聞いてショックを受け、以来それを実行してきたと言っている。彼女はちゃんと食えているし、それ以上、堂々とやってるけれど、覚悟はそこにあるんだ。ほんとうに生きるっていうのは、そういうことだ。
(岡本太郎による非常識反転発想・メラキア的発想の例)
・まずくいった方が面白い
・失敗したらなお面白い
・つまらなかったらやめればいい
・三日坊主でかまわない
・三日坊主になるという“計画”をもったっていい
・うまくいくとか、いかないとか、そんなことはどうでもいい
・下手なら、むしろ下手こそいい
・行きづまったほうがおもしろい
・強くならなくていい
Posted by わくわくなひと at 18:55│Comments(0)
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