2010年10月11日

寝る間を惜しんで読みたくなる物語の正体を知りたい!

 寝る間を惜しんで読みたくなる物語の正体を知りたい!今日、事務所から見える空は一応晴れ。ただ、薄い雲に覆われているような感じです。ビルの谷間にある大きな銀杏の葉が心なしか黄緑に変わっていることに気付きました。
 そんなことに目が行くのも休日だからでしょう。何か驚きを求めて大名や天神界隈を散策したい気分ですが、いろいろと宿題を抱えていますので、そういうわけにはいきません。
 それでも少しサボって、先週、TSUTAYAで購入した、大塚英志『ストーリーメーカー 創作のための物語論』アスキー新書(2010年2月22日第1版第3刷、初版2008年10月10日)の「はじめに」を読みました。
 この一月あまり『悪人』をはじめ小説や映画にはまっていました。小説よりも評論や論文を数多く読んできましたので、何となく小説を読んでいるときと評論などを読んでいるときの頭の状態が違うことに気付きました。小説はまったく快感を得ています。評論や論文は、知らなかったことを知る喜び、新たな見方を得て世界が違って見える驚き。そんな頭の感じでしょうか。どちらも快感の一種ではありますが、何か違う。
 そんなことを考えているときに、『ストーリーメーカー 創作のための物語論』を見つけました。仕事や睡眠をそっちのけで読みたくなる物語は、どんな構造とどんな仕掛けがしてあるのか?そんな疑問に答えてくれそうな内容です。
 「はじめに 人は機械のように物語ることができる」だけ読んでみました。こりゃ面白そうです。しかし、ここでやめときます・・・。

 なるほど、「物語の文法」などという概念を知らずとも優れた物語を書く作り手は山ほどいます。しかし、それは「物語の文法」を知らないのではなく自然に身につけてしまった幸福な例であり、つまり小さな子どもが父母や周囲の人間との会話の中で自然に母語を習得するのと同じです。・・・つまり全ての人は「物語」を読んだり映像で観て「理解」することができますが、その一方で「書く」ことのできるほどに文法を習得している人は限られている、ということです。
・・・
 では幸運にも「物語の文法」を幼い頃に「母語」の如く習得した子供しか、「物語の作者」たりえないのでしょうか。結論から言えばそうではありません。
 例えば小説家の中でも吉本ばななは、「母語」として「物語」を操るタイプです。しかし一方で村上春樹や中上健次は、「物語の文法」という概念を作家になった後に明らかに習得しています。


Posted by わくわくなひと at 16:31│Comments(0)
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