2010年03月14日

宮本輝の芥川賞選評“行間のない文学”

 二十一年度下半期の芥川賞は該当者なしだった。このような事態は十数年ぶりという。
 例によって、文藝春秋三月特別号に芥川賞選評が載っており、同僚が宮本輝の選評は“さすが”と教えてくれた。
 宮本氏の選評の見出しは、「行間のない文学」。同氏曰く、『委員ひとりひとりは、言葉は違っても、どの候補作に対しても「何かが足りない」という意味の、それもかなり辛辣な評価をした。』。さらに『だが、残念ながら、「何かが足りない」と言うしかないのだ。これはなにも文学に限ったことではない。芸能の世界においても、物を作る職人の世界においても、スポーツの世界においても、あるいはひとりの人間の領域においても同じである。自分にとって決定的に足りない何かがいったい何であるのかについて、結局は、自分で考え抜いて掴んだものしか現場では役に立たないのだ。』。
 そうだと思う。私は小説家ではなく“ものづくり屋”だが、この宮本氏の言っていることが心に響いた。
 自分流の解釈で言えば、宮本氏の思いは、“わかる”“ひらめき”などのことを言っているのではないかと思った。
 通り一遍の文章や情報などを得て、「わかりました」ということとは違う。テストやゲームで正解したこととは違う次元の話ではないか。
 自分の周りのことで言えば、商品企画、事業のアイデア、スポーツなどに打ち込んで、悩み抜いたり、夢中になって体を何度も動かしていくうちに、ある時、“これだ!”“わかった!”という瞬間がある。この世界のことを宮本氏は言っているのではなかろうか。
 三週間前に、鮮魚小売りの社長さんから話を聞いた。天草から熊本市内に魚を生きたまま運んで販売する事業で成功した社長さんの話である。
 この事業を思いついた時は、海運業をやっておられ、莫大な借金を抱えておられたという。魚を生きたまま都市に運んで売るというアイデアは、来島海峡を通り抜けている時、突然ひらめいたそうである。もちろん、追い詰められ悩み抜いた末の瞬間だったと思う。
宮本輝の芥川賞選評“行間のない文学”



Posted by わくわくなひと at 13:12│Comments(2)
この記事へのコメント
「行間のない文学」
活字でわぞわぞ表現してなくても
表現してないから
勝手に読み込む? 思いこむ? 妄想する? ことができるから
宮本輝先生の小説が好きなんです。
学生のころ「作者は何を言いたかったのでしょうか?」
という問題が国語のテストでありました。
人それぞれ何を感じ、何を思ったか?
国語の成績は決して良くなかったけれど
誰にも邪魔されずに自分の好きなように感じ解釈する
大人になってからはもっと自由にたまには斜に構えながら
行間を読む癖がついたようです。
Posted by 8-345 at 2010年03月14日 16:42
私おくてですので、最近、小説の行間を読むことの楽しみ、妄想が分かるようになった気分でいます。(雁林)
Posted by 雁林 at 2010年03月16日 00:32
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