渡辺京二『熊本県人』備忘録①
肥後人の気質は、以下の通り。
・昔の肥後人はモッコスという言葉をあまり使わなかった。つまり、モッコスは肥後人の代表的な気質ではない。
・肥後人気質は「ワマカシ」(複雑聡明、自意識鋭く批評的)
・自意識の敏感さから(大阪弁でいう)「ええ格好しい」を極端にきらう
・物質的な利害や現実的な効果と結果を基準とする思考法を嫌悪
・情熱的かつ冷笑的、開放的かつ鬱屈、観念家かつリアリストと常に二面性
・徹底した反功利主義と極端な観念主義の起源は菊池家の家風
・気質はかたくなであくどい観念性の内陸的肥後と、のどかさと明るさの海洋的肥後に
以下は備忘を目的とした書き写し。
(※■は備忘のために勝手につけた見出し。)
肥後魂の二面性
■昔の肥後人はモッコスという言葉をあまり使わなかった
12頁
近頃では、モッコスとは抵抗精神のことで熊本の誇りだなどと、ばかなことをいう人間が熊本県人の中にさえいるが、私の考えでは、昔の肥後人はこの言葉をあまり使わなかったし、自分たちの特徴をいいあらわす言葉とはけっして考えていなかった。その証拠に、肥後狂句の研究家山口白陽氏によれば、古狂句の中にはモッコスという言葉は一例も使われていないそうである。熊本県人の特色は、「モッコス」それ自身にあるというよりも、むしろ、おなじ条件の下ではどこにでも存在する頑固な変わり者を、モッコスというユーモラスなイメージとして対象化して行く意識のありかたにある。
肥後人は天性のユーモリストで、冗談とばか話が大好物である。そしてそのユーモアはことごとく、肥後人が意識的かつ批評的な気質の持ち主であることから生じている。・・・
■肥後人気質は「ワマカシ」(複雑聡明、自意識鋭く批評的)
13頁
清風が指摘しているような、複雑聡明で自意識が鋭く批評的であるという肥後人気質をあらわす言葉は「ワマカシ」である。昔から肥後人を代表する言葉とされたのはこのワマカシであって、けっしてモッコスではなかった。モッコスという言葉がさかんにいわれるようになったのは戦後の流行であって、これは肥後のワマカシの悪名高いのに熊本人自身が反省して、より外づらのよいモッコスを熊本人の代表におしあげたもののように思える。
■自意識の敏感さから「ええ格好しい」を極端にきらう
14頁
・・・熊本人は大阪弁でいう「ええ格好しい」を極端にきらう。これは自意識の敏感さであって、自分がいまいい格好をしつつあるのではないかという自己批評がつねに働く。この批評意識はもちろん他にもおよぼされる。・・・同級生の会話に頻出する「ムシャツクンナ」「ウストロカ」の二語であった。
■物質的な利害や現実的な効果と結果を基準とする思考法を嫌悪
19~20頁
・・・それは利害とか出世とか社会的評価などという現実的な関心を徹底して放棄したい欲求であり、自分というものをできるかぎり無化してしまいたい情念である。
これは、ある純粋に無償な行為に対する強いあこがれであり、その意味で強烈な反功利主義である。物質的な利害や現実的な効果と結果を基準とする思考法を、それは嫌悪する。
このような傾向は、本質的には現実の制約をきらう主観主義であり、しかも肥後人の中途半端をいやがる極端な性質は、その主観主義をおのれをすらも無と化してしまいたいというぎりぎりのところまで押し進めずにはおかぬである。肥後人の奇言奇行というものは、およそこういうところに根をもっている。思想現象でいえば、神風連などはこのような主観主義と反功利主義の標本といってよい。
■情熱的かつ冷笑的、開放的かつ鬱屈、観念家かつリアリストと常に二面性
25頁
こう見てくると、肥後人には、ひとつの傾向なり欲求なりを、極点まで進行させねばやまぬ性格であることがわかる。しかも、一方の極が見えている時には、同時にその反対の極が見渡せているのである。感情は熱情的でありながら冷笑的、明るく開放的でありながら重苦しく鬱屈するといったふうに、つねに二面性をおびている。熱情的にひとつの極にのめりこんでいく過激さとともに、そういう自分の情念をひややかに眺めるさめた意識がある。彼は実行においては極端な観念家でありながら、認識においては徹底したリアリストである。いわゆる肥後の党争の禍とか肥後人の分裂抗争癖なるものは、このような肥後人の魂の二面性の現われである。・・・
菊池家の家風
■徹底した反功利主義と極端な観念主義は菊池家の家風
48頁
・・・その家風とは、あらためて特徴づけてみると、利に目を奪われて背信することをきらう潔癖さ、ことの成敗にとらわれることをいやしみ、観念に殉じることを美しいとする美意識、いったんきめた方向を変更しない果敢さと頑固さ、現実の動向よりも自分の内部の確信を信ずる主観主義、というふうにまとめることができる。これを一言でいうなら徹底した反功利主義ということになろうが、このような気風がどうして当時の菊池一族のなかにつちかわれたのかといえば、それは謎というほかはない。
しかし、ここに菊池家の家風としてあげたような特徴は、いずれも後世の肥後人にしばしば現れた精神的特質であり、それからすれば、菊池の家風は、肥後人の反功利主義的な美意識と極端にかたむきやすい観念主義の、最初の発現ということができよう。
・・・
辺境で権力から疎外されたものは、自己救済の手段として、幻影を生み出しそれにあこがれる。そしてそのあこがれは観念的であるだけに、どれだけでも純粋化し、現実の利害を超越する。菊池氏の反功利主義の理由として、このような仮説を立ててみることは、かならずしも思いつきではあるまい。
キリシタン大名、行長
■気質はかたくなであくどい観念性の内陸的肥後と、のどかさと明るさの海洋的肥後に
71頁
・・・彼が築いた宇土城(鶴の城)をはじめ、彼の記憶をとどめる遺跡は徹底的に破壊された。そして、それはまた、肥後の歴史の主流をかたちづくった内陸的肥後による、海洋的肥後の圧服でもあった。
ここで内陸的な肥後というのは、阿蘇・菊池・鹿本・玉名・飽託・益城(松橋・小川地域を除く)などの肥後北半分のことで、歴史的には阿蘇・菊池氏から、加藤氏に支配がひきつがれる地域である。いわゆる肥後人気質とは、正確にはこの地域のものである。これに対して、宇土から芦北にいたる不知火沿岸地帯と天草は、文化地理的にいって海洋的性格が強く、歴史的にも、名和・相良・小西といった、北半とは異なる支配の系譜が織りなされて来た。・・・
不知火海をかかえこむ、これら県南部地域が、内陸的な北部とはちがった性格を示すのは当然であるが、この地方の住民も、ワマカシとかモッコスという言葉で特徴づけられるような、いわゆる肥後人気質とは、かなり違った意識構造をもっているようである。一言でいって、それは、北部のかたくなであくどい観念性に対し、海にかこまれた自然のなかでまどろんでいるような、のどかさと明るさを示している、といってよい。あるいはそれは、北部の士族や本百姓の私有意識の強烈さと、南部の漁民や流民の共有意識のあいまいさの対比ともいえるかもしれぬ。・・・
島原の乱
■肥後精神史での切支丹の流れ
74頁
・・・しかし、行長の統治は、歴史の上から抹殺されたかに見えながら、つねにかすかな影を肥後の精神史に投じ続けた。そのひとつが、肥後切支丹の流れである。
そもそも、肥後にキリスト教が入ったのは、一五六六年の秋、ヤソ会士のダルメイダが、天草の志岐鎮経とその家臣たちを入信させたのが最初である。七○年には、本渡の天草氏も信者となった。当時、天草地方は切支丹大名である大友宗麟の勢力下にあり、それだけ布教も容易だった。また記録によると、それより早く、トルレス神父が六三年から翌年にかけて、高瀬町に滞在し、高瀬と川尻に布教許可の立札が立てられている。
・・・
細川氏入国
■実際の石高は七十四万石
83頁
・・・おもてむきは五十四万石だが、実際の石高は細川氏がひきついだ時点で七十四万六百四十石四斗五合であった。
・・・
宝暦の改革
105~106頁
・・・収入の増大の面では、(堀)平太左衞門は一連の経済政策を実行に移した。すなわち、宝暦六年から検地を開始し、隠し田を摘発した。検地といっても、田畑に実際に検地棹を入れれば、農民が動揺するので、一枚一枚の田畑の面積は調べず、田畑の枚数だけについて、帳簿と実際をひきあわせたのである。これを「地引合い」といい、玉名郡の庄屋田添源治郎の発案で、実行も彼が指導した。この地引合いは十三年かかり、終わったのは明和六年(一七六九)であった。
136頁
・・・細川藩はこの総庄屋層に郷士としての特権をさずけ、彼らの自尊心をくすぐりながらたくみに農民統制に役立たせた。総庄屋たちは土着的な豪農であると同時に、藩命によって各地を転任して歩く官僚でもあった。
名君をめぐる人びと
112~113頁
■世間の調子とちがうような者に大才がある。
彼(細川重賢)の統治者としての資質は、まぎれもなく優秀であった。彼は君主の任務は人材を正しく用いることにあると考えており、しかもそのさい、けっして自分の好みを出してはならぬことを知っていた。彼は某藩の藩主の問いに「自分の好みで人材を選んではならぬ。みんながよいという人物を私心なく用いることだ」と答えており、またつねづね「こちらの寸尺をあてはめて人材を求めれば、望みにかなう者はまずいないものだ。一拍子、世間の調子とちがうような者に、かえって大才がある。大才ある人物は、ちょっと見には愚物のようであり、おかしなところが多いので、見そこなうことがある」と言っていた。すぐれた見識である。
実学党と学校党
140頁
■小楠の学問観は「学問の道は古典の字句のせんさくにあらず」
・・・小楠は・・・三十二歳にもなって兄の厄介者である。・・・この時までに、彼は、学問の道は古典の字句のせんさくにあるのではなく、それを現実の社会にほどこすことにあるという、いわゆる実学の立場にすでに達していた。また真理は先哲の書から演繹されるのではなく、現実の観察からもたらされるという方法論にも達していた。しかし、現実そのものを批判すべき思想的な立場はまだ築かれていなかった。彼にはまだ拠って立つべき理念がなかった。徹底的な古典とのとりくみが始まる。・・・
反主流派
■実学党は横井小楠、長岡監物、元田永孚ら
■長岡監物は水戸斉昭や藤田東湖らと親しい
140頁
天保十二年(一八四一)小楠を中心に米田是容(長岡監物)、荻昌国、下津休也、元田永孚らの読書会が始まった。
142頁
弘化四年、是容は家老職を退いた。是容は水戸藩の指導者と親しく、水戸斉昭や藤田東湖が幕府ににらまれて失脚したあおりをくったのである。小楠の藩政改革プランもまた一場の夢と化した。・・・
時習館批判
■小楠の学問観は実用主義ではなく真理を明らかにすること
144頁
・・・すなわち、ここでは学問が藩の必要にこたえる政治技術になってしまっている。さらに藩士たちにとっては学問をすることが立身出世の手段になる。こういう学校はないほうがましだというのが小楠の考えである。
つまり小楠は、学問が章句の解釈にとじこもって政治と無関係になることだけを批判したのではなく、それが安易に政治の手段とされ実用化されていることをも批判したのである。実学という名にわざわいされて、小楠の学問観が実用主義的なものだったように考えるのは誤りである。彼にとって学問とは天地の間に存在するただひとつの理(真理)を明らかにするものであり、固定化した知識の体系ではなかった。・・・あらゆること、たとえば父子夫婦の人間関係から山川草木鳥獣、歴史上の事実から日用の事物にいたることがらについて、思索をこらすこと、それが学問である。朱子を学ぶというのは朱子が学んだ方法を学ぶことであり、杜甫を学ぶというのは杜甫が詩作した方法を学ぶことである。つまり彼にとって真理を明らかにする作業はどういう生活領域においても可能なのであり、政治もまたひとつの真理追究の領域にすぎないのである。学政一致はこういう考えの上に立ってはじめて可能になる。小楠の学問観は、学問を当時の政治体制から独立した、批判的理性の働きとしてとらえるものであった。・・・
政治批判
146頁
■小楠堂を支えたのは徳富、矢島、竹崎、長野などの郷士層
小楠が家塾を開いたのは、天保十四年(一八四三)である。・・・四年後の弘化四年にはいまの熊本市下通あたりに「小楠堂」が新築された。第一の入門者は徳富一敬、ついで矢島源助であった。徳富は葦北郡佐敷郷の総庄屋の嗣子であり、蘇峰・蘆花兄弟の父である。矢島は益城郡中山郷の総庄屋の長男である。ついで玉名郡南関郷の総庄屋木下家の出身で、おなじく総庄屋格の竹崎家をついだ竹崎茶堂、鹿本郡稲田村の医師の息子で、のちに熊本県製糸業界の父となった長野濬平も門人となった。もちろん小楠に弟子入りしたのはこういう郷士層だけでなく、藩士の中にも門弟はいた。嘉悦氏房(三百石)、山田武甫(百石)、安場保和(二百石)などがその主なものである。
矢島一族
147頁
矢島家は上益城郡津森村杉堂を本拠とする総庄屋家で、この頃の当主は忠左右衛門であった。忠左右衛門は三村和兵衛の娘つるを妻にもらった。・・・忠左右衛門は郡会所の下役から勤めはじめて、天保九年には葦北郡湯浦郷の総庄屋となった。その頃、水俣の豪家である徳富家の当主美信が湯浦の北どなりの佐敷郷の総庄屋をしており、そういう縁で矢島家と徳富家のつきあいが生まれたのである。
肥後勤王党
■小楠と並ぶ思想的巨人、林桜園
150頁
林桜園は肥後勤王党の思想的な師であり、小楠とならぶ近世熊本の思想的巨人といってよい。・・・
もともと肥後には高木紫溟がはじめた国学の伝統があった。紫溟は第三代時習館教授で時習館に国学科を設置しようとしたが、藩庁のいれるところとならなかった。彼は高弟の長瀬真幸を本居宣長のもとに送り、この真幸が帰国して熊本城下に塾を開き、宣長学をひろめたのである。桜園は真幸の塾に入門した。文政十年、三十歳のときに桜園はまねかれて玉名郡伊倉に移った。そして天保八年(一八三七)、四十歳になって友人たちの協力で熊本城下千葉城町に家塾原道館を開くことができた。
宮部鼎蔵が原道館に入門したのは嘉永五年(一八五二)である。鼎蔵はもともと上益城郡七滝村の医者の息子である。祖父が富田大鳳の門に学び、彼自身は大鳳の子文山から医術を習った。しかし医者になるつもりはなく、叔父が肥後藩の山鹿流の軍学師範をしていたので、若くからそのもとで兵学をならい、叔父のあとをついで三十歳で山鹿流師範に任ぜられた。彼が政治運動に身を投じて肥後勤王党のリーダーとなるのは、大鳳ゆずりの尊皇思想のせいもあろうが、ひとつは親友吉田松陰の刺激によるものと考えられる。
153頁
桜園は嘉永年間、すでに五十代である。宮部鼎蔵、松村大成、永鳥三平、轟武兵衛、河上彦齋、太田黒伴雄、加屋はるかた、魚住源次兵衛、山田信道などの弟子たちにとって、この師は翁という印象をあたえたにちがいない。・・・
154~155頁
(嘉永六年、一八五三)この頃の小楠をはじめとする実学党は、桜園門下の勤王党の人びとときわめて親しい関係にあった。小楠自身、桜園の門人名簿に登録されているところからみれば、なんらかの形で彼の教えを乞うたことがあったのである。小楠はとくに宮部鼎蔵や永鳥三平と親しく、内坪井の宮部の道場にはしばしば門弟をひきいて山鹿流軍学のけいこに出かけた。・・・
・・・
徳富蘇峰は「松陰の交遊の一半は、その同志者の一半は死にいたるまで肥後人であった」といっている。松陰が五年間に北は青森から南は九州にいたるまで全国を歩き回ったのは、閉塞した現状を打破することのできる思想的な起爆力を求めてのことであったが、その彼にもっとも深い印象をあたえた土地が水戸と熊本であったことは、当時の熊本の実学党・勤王党の水準をものがたっている。