未来 実は過去への郷愁に過ぎぬかもしれぬ
夏目漱石『夢十夜 他二篇』ワイド岩波文庫(2008年4月4日第2刷、2007年1月16日第1刷)を読んだ。一月くらいかけて眠る前の息抜きとして読んで、漱石の文章に身近さを覚えた。しかし、漱石先生には申し訳ない気持ちもままあるが、それよりも阿部昭氏による「解説」の一文に驚きと新鮮さを感じてしまった。
以下の文である。
・・・書くとは、見てきたかのように書くことでもなければ、目に見えるように書くことでもない、現にこの目に見えるままに書くのである。
われわれは、この現在を生きている、あるいは未来を生きようとしている、と考えることに慣れている。だが、実のところは、われわれはそれ以上に多く、長く、濃く、過去に生きていると言うべきではないか。また、われわれが未来と呼びなしているものも、実は過去への郷愁に過ぎぬかもしれぬではないか。それが証拠には、人は夢の力をかりて時間も空間も一挙に、自在に飛び越えるかに見えて、その実、夢の力をかりて時間も空間も一挙に、自在に飛び越えるかに見えて、その実、夢の中でさえ少しも自由ではない。・・・
私の場合、一本切れているのかもしれぬが、夢の中では自由な方である。たとえ妖怪と出くわしても、「おのれ妖怪とののしり。闘うことができる」。最近はないが、けっこう空も自由に飛べるのである。
しかし、“われわれが未来と呼びなしているものも、実は過去への郷愁に過ぎぬかもしれぬではないか。”には驚いた。こういう見方も一理あると妙に納得した。それが証拠には、最近のビジネス関係に携わる御仁は、過去を振り返るという思考が不足していると思うことがしばしばあるからである。