視ること、それはもうなにかなのだ。―梶井基次郎
周期みたいなものがあって、論文とか思想とかのジャンルに近いものを読みたくなる時期があります。しばらくすると、今度は肩の力を抜いて柔らかい小説みたいな文章を無性に読みたくなるときがあります。
今の気分は肩の力を抜いて少しずつ、「ちびり、ちびりやれる」小説がいいですね。しかも、多くの時間は割けないので短編、小池真理子の掌篇くらいの小説が今の自分に合っているかと思います。
梶井基次郎『檸檬・冬の日他九篇』岩波文庫(2009年5月25日第53刷、1954年4月25日第1刷)は、手のひらにのるくらいの掌篇を集めた文庫本です。53刷ですから、相当読まれている文庫本です。
それで「ちびり、ちびり」読んでいますが、メモしておきたい箇所に出会うことができました。今の自分は“聴く”“視る”など五感を糸口とした人の心の化学反応に興味があることに改めて気づきます。
「ある心の風景」より
川のこちら岸には高い欅(けやき)の樹が葉を茂らせている。喬は風に戦(そよ)いでいるその高い梢に心を惹かれた。やや暫らく凝視(みい)っているうちに、彼の心の裡(うち)のなにかがその梢に棲(とま)り、高い気流のなかで小さい葉と共に揺れ青い枝と共に撓(たわ)んでいるのが感じられた。
「ああこの気持」と喬は思った。「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分あるいは全部がそれに乗り移ることなのだ」
喬はそんなことを思った。毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑―病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、此処の高い欅の梢にも感じられるのだった。