芥川賞!「きことは」書き写すと凄い。「苦役列車」は強烈
第144回昭和22年度下半期芥川賞が決定。数週間前に同僚から「文藝春秋」を借りて読みました。
受賞したのは、
文学の名門で育った朝吹真理子の「きことわ」と、中卒・逮捕歴ありの西村賢太「苦役列車」。
「きことわ」の洗練された文章と、社会の底辺でうごめく「苦役列車」の文章。素人判断では「朝吹真理子がもっと人生の経験を積めば、読みたくなる小説を書くかも知れない」。これが宮本輝の表現になると、「誰に言われなくても、朝吹さん自身が、みずからそれを求めて、作風に鑿や鉋を深く加え始めるときが必ず訪れるであろう。」。しかし、書き写してみると、この人の凄さが分かりそうな気がします。西村賢太は強烈!青汁を飲んで、「まずい!もう一杯」というよりも、今度はどんな刺激で勝負してくるか気になりました。
「きことわ」で線を引いたのは、以下のところ。
居間からひろがる一面の庭、柳に美男葛、百日紅、名を知らない丈高の草木がきりなく葉擦れし、敷石の青苔が石目をくくむ。はやばやと葉を落とした裸木のあるところは光線がじかに落ち、土がひかりを吸う。
“土がひかりを吸う”。この言葉に痺れました。書き写していたら、ボキャブラリーと感受性が並みの人ではないことが分かってきました。
「苦役列車」は最初からストレートパンチを食らったような感じ。
・・・パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、・・・
「文藝春秋」には選評が載るから面白い。以下は記憶しておきたい箇所。
▼島田雅彦「はじめてのおつかい」
・・・本当に新規な作品は過半数の支持など得られはしない。芥川賞も基本、保守である。だが、保守こそ「わかりやすくて目新しいもの」を求めるのも事実だ。・・・
▼高樹のぶ子「五感の冴え」
「きことは」は触覚、味覚、聴覚、嗅覚、そして視覚を、間断なく刺激する作品、この感受性の鋭さは天性の資質だ。感覚で摑まえたものを物や事象に置き換え、そこに時間の濃淡や歪みを加えて、極彩色の絵画を描いてみせた。・・・身体の実感を言語化するとき、ともすれば自分流儀な表現に陥りがちだが、具体的な物や事象に置き換える、つまり客観性を与えて提示できる力がある。・・・文章に韻律というかリズムがあり、これも計算されたというより、作者の体内から出てくるもののように感じた。・・・良い文章とは、音楽的な抑揚に富んでいるもので、そこに「空」や「無常」の感覚がうっすらと、しかも明るく加わっているのだから・・・
▼池澤夏樹「時間をめぐる離れ業」
一般に小説とはストーリーである。一人または複数の人々の身の上に何かが起こり、それがいろいろに推移して、結果に至る。時は一方へと流れる。
しかし、この通常の方法では書けないテーマが一つだけある。人間にとって時間とは何か、という大きな問題。
ただ事象の後ろを追って走るだけではつかみきれない、過去と今、今と未来の間の意識の頻繁な行き来、が我々にとっての時間というものの本当の姿ではないか。
朝吹真理子さんの「きことは」は時間というテーマを中心に据えた作品である。
▼石原慎太郎「現代のピカレスク」
・・・
朝吹氏の作品に対比して西村賢太氏の「苦役列車」は、これはまた体臭の濃すぎる作品だが、この作者の「どうせ俺は-」といった開き直りは、手先の器用さを超えた人間のあるジェニュインなるものを感じさせてくれる。
超底辺の若者の風俗といえばそれきりだが、それにまみえきった人間の存在は奇妙な光を感じさせる。
▼黒井千次「淡い光と濃い闇」
・・・「きことは」が・・・更に記憶や夢がその世界の時間を切り刻み、混ぜ合わせ、過去と現在とを重ね合わそうとする。これだけの独自の時空を生み出すのは、淡い色合いを思わせる言葉の力であるらしい。何が書かれているかより、いかに書かれているかにより強い興味が引かれるような候補作は珍しい。・・・「苦役列車」は、・・・一つ一つの行為にどこかで微妙なブレーキがかけられ、それが破滅へと進む身体をおしとどめるところにリアリティーが隠されているように思われる。・・・
▼宮本輝「小説の濃淡」
ジグソーパズルの小さなピースに精密でイメージ喚起力の強い図版が描かれてあって、そのピースを嵌め込んで完成した全体図は奇妙に曖昧模糊とした妖しい抽象画だというのが朝吹真理子さんの「きことわ」である。・・・
誰に言われなくても、朝吹さん自身が、みずからそれを求めて、作風に鑿や鉋を深く加え始めるときが必ず訪れるであろう。・・・