夕映えが美しいように老人からみた世界は深く美しい!

わくわくなひと

2010年11月14日 16:56

 伊藤整『変容』岩波文庫(2009年5月7日第9刷、1983年5月16日第1刷)。底本は『変容』岩波書店(1968年10月)です。
 昭和の高度成長期、東京初の高層ビルとなった霞ヶ関ビルが建設されているころの東京周辺が舞台。60歳くらいの初老を迎えた画家の心理と行動が一人称で語られていきます。
 当時としては衝撃的な長編小説だったに違いありません。若い世代が思い浮かべる初老の人とは、人生の晩年にさしかかり、落ち着き静かに日々を過ごしているという印象を持ってしまうことでしょう。しかし、この小説では、「性の快楽が青年の特権ではないこと、さらには、それらの行為を通して人生の真実により深く到達するのは、若者や壮年よりも老年であることが啓示」(中村真一郎の解説)されます。
 老いというものに不安や嫌悪を抱いたような経験がある方には、ぜひ一読をおすすめしたい文庫本です。
 以下は、後学のために書き抜いた箇所です。

(人生観)
真実の倉田を人に分かってもらうことはつぎつぎにつながっている醜聞を引きずりだすことになる。

「今の僕の年になれば色好みの心は消え失せてしまうものだろう、と思って、むかし僕は年配の人たちを見ていた。しかし君、そうではないんだね。若い時よりも、まわりの条件がよくなっているから、気持ちの流露感は若い時よりも自由になるばかりだ。人生には予定外のことが色々とあるものだ。」

「・・・私の申したいことは、老境というものは、若い人の目からすると死のすぐ手前にある衰弱の一段階にしか見えない。私自身もずっと、六十に近くなる十年ほど前までは、年とった人をそのように見ておりました。これは客観的事実ですから仕方ありません。若い人が産業予備軍や才能予備軍に見えるように、死者の予備軍でしょう。しかし老人それ自体から見ると、老人の世界ははじめての経験なんです。老人の世界は、一つ一つのことが新しい発見であり、体験なのでして、たとえば私が永年描き慣れて来た人間の女性の美しさというものも、ここに来ると違って見えるのです。」

「分った、つかまえた、と思う。そして描き出す。ところが腕の方は、昔からの自分のきまり切った、慣れて歩きやすいコースを滑って行く。そして結果として、折角老年という新しい人生の断面で見たもの、悟ったものとは別な、昔ながらの自分の絵になってしまう。これが老年というものの悲劇です。・・・ま、これでやめます。ありがとう、皆さん、夕映えが美しいように、老人の場所から見た世界は美しいのです。どうもありがとう。」

「幸福ってものは君、そんなものだ。戒律、律儀さ、道徳、羞恥心、そんなのが我々をだまし、してそうなんだよ。触れることなしには描かなかった、と自分でも言ったりした。しかし私も本当は決して無茶をした訳ではない。ためらい、尻込みし、我慢し、見送った場合の方がはるかに多いのだ。君なんかどうかね?何をしてきたかね?」

「龍田君、七十になって見たまえ、昔自分の中にある汚れ、欲望、邪念として押しつぶしたものが、ことごとく生命の滴りだったんだ。そのことが分かるために七十になったようなものだ、命は洩れて失われるよ。生きて、感じて、触って、人間がそこにあると思うことは素晴らしいことなんだ。語って尽きず、言って尽きずさ。」

・・・人生には、起こってならないはずのことがしばしば起こるものであり、その衝撃に耐え、それを人目にふれぬように処理し、そこをさりげなく通りすぎることが生きることだ、と言っていいほどなのだ。私はそれを知っている。生きることの濃い味わいは、秘しかくすことから最も強くにじみ出て来ることを私は知っている。自分のした事を自然現象と同じように寛大にゆるしながら、もの静かに落ち着いてその場面から立ちのくことに、私は人間の熟成というものを感じる。

(人とのつながり)
男と女の内密のつながり、男と男との利害の衝突、仕事の競争とねたみなどが、網の目のように、ここにいる人々を見えぬ糸で結びつけている。その否定できない事実が、一つの時代の人の組み合わせの中に生きものとして存在している。

 私よりも年上の男が、そんな風に「本気」になってものを言うのは珍しいことだ。自分自身が近年はめったに本気でものを言わないのにも私は気づいている。

(女性について)
そこでは伏見千子だけが、その豊かな崩れかかった身体の中に、深い層をなした思い出を生かし保っていた。人の姿や出来事の記憶、さまざまな機会の涙、怒り、笑い、情感が、遠い過去の反響としてその内部に醱酵し、美酒として満ちていた。

 目の力が、その年齢と智慧とによって一層大きくなっている。彼女が自分を知る力は昔に較べると比較にならぬほど進んでいる。

 白髪が衰弱ではなく熟成のしるしに見えるのは、その人間の表情、それも主として目の力によるが、本当は仕事のせいである。

 私の色好みの気質は、情感としては年とともに放恣なものになって行くが、現実の欲求は次第に軽くなって来た。

・・・生きることの意味をさぐり味わっている人間は、その性においてもその反響を全人間的に受けとっている。生きる意味の把握があるところにだけ性の感動の把握もあるのではないか。教養と人格を持った女性の性感こそ本当の性感であり、そのつつしみ、その恥じらい、その抑制と秘匿の努力にもかかわらず洩れ出て、溢れ出る感動が最も人間的なのではないか?それが私の見出した人柄と感動との関係だった。豚の悲鳴のようなものをもって生き甲斐とするわけには行かない、というのが私の気持ちであった。

・・・年寄りにとっての性、それは性そのものが本当に快楽なのでもない。相手を喜ばせることに生き甲斐を見ていることだ。宝石を一つ持って行って与えることは、常住の喜びをその相手に与えつづけることではないのか?

・・・私の中に力が足りない日には、女が生気なく、魅力なく見えるのに当惑する。・・・年若い、ととのった顔だちの女性まで、何のためにこの女は唇を塗ったり眉を描いたりしているのだろう?何の役にも立っていないのに、と不思議なものに見える。そして忽ち私はさとる。今日はおれの中の生気が足りないのだ、と。そして、これが年をとるということなのだ、と私は分かって来た。

 性は、それ自体が善と悪のけじめをなす一線だとは、今の私には感じられない。男と女が同じ方向に傾いた心を持つとき、二人は性をきっかけにして結びつくのだ。性は人間の接近のきっかけの一つでしかないと今の私には思われる。老齢が近づき、性の力が衰退してゆくとき、残り少ない発動の力を、更に正と邪にゆって区別し、抑圧し、圧殺することへの本能的な嫌悪が私の中に生きている。老齢の好色と言われているものこそ、残った命への抑圧の排除の願いであり、また命への讃歌である。