わが色欲いまだ微かに残るころ・・・最晩期の斉藤茂吉
鶴見俊輔編『老いの生き方』所収、
鮎川信夫「最晩期の斎藤茂吉」より。
わが色欲いまだ微かに残るころ渋谷の駅にさしかかりけり
・・・色欲と渋谷の駅が結びついているところに、どんな事情が潜んでいるのかは分からないけれど、それだけで読者である私にはぴったりくる個人的な暗号になりうる。青山や代田1丁目に住んでいたので、渋谷駅の付近には、よからぬことをした思い出がたくさんあるからである。
私も大昔、代田1丁目の隣の隣町くらいのところに住んでいましたので、分かるような気がしました。後10年もすれば、こんな心境になるのでしょうか。
この歌の熊本版なら・・・
わが色欲いまだ微かに残るころ中央街にさしかかりけり
福岡版なら・・・
わが色欲いまだ微かに残るころ中洲新地にさしかかりけり
でしょうか?
朝飯(あさいひ)をすまししのちに臥処にてまた眠りけりものも言わずに
こういうことが多くなるのがすわなち老いの兆候である。食事のあとの眠りは快楽であって老人は誰憚るところなく、その快楽に直行できる。・・・「いわゆる『耄期』に入ったものは、玉茎などもしなびてしまって、から見映えのしないものになつてしまふ。従って、美姫の唇などといふものだつて、邪魔ものになる。そんな邪魔ものの無い方が安楽に寝れるといふことになる。(中略)ひとりぽっちで、厚ぶすまで体をうづめ、とぷりと獣類の穴ごもりするやうな感じで、ほのりほのりと暖まるといふことは、全身が清爽で何ともいへぬ終末である」
耄期に入って「全身が清爽」という快楽の境地は、少しでも若さに未練のあるうちは、なかなかわかり難い。しかし、これは文字どおり真実である。老体は、何をしなくても、安逸な生の喜びを享受しうるようになっている。快楽のために、運動や人手を必要としない。眠りに直行するだけで充分すぎるほどなのである。
おとろえしわれの体を愛(は)しとおもふはやことわりも無くなり果てつ
立派に自慢の歌である。