村上龍「冬の花火」。饒舌ではない最後の余韻が素晴らしい!

わくわくなひと

2010年09月27日 10:05

文春文庫『美しい時間』(2008年12月10日第1刷)に収められた村上龍の短編「冬の花火」。
50歳代の人を想定した小説であり、カジノでおおもうけした後、自殺した人の話から始まる。損をしたら自殺が定番だが、おおもうけして自殺。読者は出会い頭から、やや強めのジャブをくらう。
その人は大蔵省の官僚出身で海外の金融マンに転身したエリートであり、成功者の部類に入る。主人公のステッキ屋(矢垣)さんを通じて、その成功者のことが語られていき、最後は遺書と冬の花火のことで終わる。
 饒舌ではない終わり方。最後の余韻。まだ日本では珍しい“老い”を語る見事な短編小説の一つだと思う。

 以下は書き写したくなった文章の一部。

 ぼくは、これまでの人生に後悔など無いと思ってきた。しかし、一人で花火を見たときに、妻と一緒に冬の花火を見たことがないと、気づいた。花火はとてもわかりやすい。花火は一瞬で消えるが、ぼくたちに一体感のようなものを刻みつける。ぼくたちは、誰かとともに花火を見ることで、その人と同じ感情を共有していると気づく。妻と一緒に冬の花火を見たことがなかった、そのことに気づいたとき、本当は、きっと数え切れないほど多くの、決して取り返しのつかないことをやり残しているんだろうと、そう思った。

 矢垣君、どうか、この手紙を読んだら、奥さんと一緒に冬の花火を見に行ってくれないか。君なら、ぼくの言うことをわかってくれると思う。

 他人を理解するのは不可能なのかも知れない。だがこの人と、夜空いっぱいに広がって消えゆく美しい光を見ているという事実は疑いようがない。確かに、冬の花火は何かを象徴している。そしてそれは、たいせつな人と一緒に寒い夜にきらめく一瞬の閃光を眺めた人にしか、わからない。