私の叔母の49日の法要が今週の日曜日にあります。
数日前の夜中には、コンマ数秒でしょうが、私の胸の上で若い女性の幻覚のようなものを見てしまいました。こんなことは祖母が亡くなった時以来なので二十数年ぶりくらいです。
偶然でしょうが、これがセレンディピティというのでしょう。
何日か前の熊日新聞の読書欄で紹介してあった一冊の本に興味を持ってしまいました。
井上文勝『「千の風になって」紙袋に書かれた詩』という今月、出版されたばかりの本です。日曜日に熊日を読んでアマゾンで注文し、月曜日に手に入り、その日のうちに読んでしまいました。
私はほとんどテレビを見ませんので、世の中の流行ものに関して非常に欠落しているところがあります。それでも、確か何年か前に、「千のかぁぜぇに・・・」という歌がよく流れていたことを記憶しています。
それ以上のことは知りませんでした。曲は違いますが、世界中で、特に追悼式で詠まれている詩だそうです。しかも、つい最近まで作者不詳ということで知られていたそうです。
この本には不詳となっていた作者を調べていくプロセスが書いてあります。「自分が作者だ」と名乗る人がたくさんいる中で、一人のアメリカ人の女性に行き着きます。Mary E.Fryeという方です。
私の場合、創造性訓練のためのゲームのことをいつも考えていますので、次の部分が一番印象的でした。
第二次世界大戦の前、ヒトラーが力を付けてくる中で、ドイツに残してきた母親を亡くして悲しむユダヤ人の娘さんをなぐさめようとして、詩が浮かんでくる場面です。
マリーの耳の奥から、かすかな声が湧きあがってきた。マーガレット(ユダヤ人の娘)の母の声か、自分の母の声か・・・。濡れたまぶたを閉じ、うつむいてその声にじっと聞き入った。やがて、さだかでないその繰り返しがはっきりとした言葉となって語りかけてきた。
「・・・私のお墓の前にたたずみ泣かないで・・・」
うなずいて目を開けると、引き寄せた買い物の紙袋を破り取り、茶色の紙片にその声を書きつけはじめた。
気がつくと、黄昏せまる紫色の空に、三歳のときスプリングフィールドの駅で見たのと同じ宵の明星が輝いていた。
この本の中には、Maryが子供のころ孤児となったこと、その後、一生懸命生きていく姿が描かれています。そういった彼女の経験と思いの積み重ねが、ある強い思いを伴うきっかけや刺激によって詩が生まれてくる。その詩が生まれる瞬間が印象的でした。
以前、このブログで紹介しましたが、茂木健一郎さんや中野正剛さんの以下の表現と一致しているようです。
『かつて、情報という概念の本質について議論した時、松岡正剛は、「現代人は情報が横から来ると思っているけれども、昔の人は上から降ってくると思っていた」と言った。ここで「上から」とは、文字通り空間的な上方に由来するという意味ではない。この現実世界の中を流通して「私」にやってくるのではなく、自分の無意識の中から生成される何か、という意味である。』
Do not stand at my grave and weep,
(私のお墓の前にたたずみ泣かないで)
I am not there, I do not sleep.
(私はそこにはいません 眠っていません)
I am in a thousand winds that blow,
(私は吹きわたる千の風のなかに)
I am the softly falling snow.
(私は静かに舞い落ちる雪)
I am the gentle showers of rain,
(私はやさしい雨のしずく)
I am the fields of ripening grain.
(私はたわわな麦の畑々)
I am in the morning hush,
(私は朝の静けさのなかに)
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight,
(私は優雅に舞いながら天高く昇っていく美しい鳥たちのなかに)
I am the starshine of the night.
(私は夜を照らす星光)
I am in the flowers that bloom,
(私は咲きほこる花々のなかに)
I am in a quiet room,
(私は静かな部屋のなかにいます)
I am the birds that sing,
(私はさえずる鳥たちのなかにも)
I am in each lovely thing.
(私は美しいもの、ひとつひとつのなかにいます)
Do not stand at my grave and cry,
(私のお墓の前にたたずみ嘆かないで)
I am not there. I do not die.
(私はそこにいません 死んではいません)
Mary E. Frye, 1932